由緒

千代神社はかつて佐和山の麓(古沢町)にあった。本殿の裏の林で蝉捕りやターザンごっこをして遊んだ記憶を持つ人も多い。国道8号線佐和山トンネルの手前、マルハン彦根店の南側の駐車場からネクステージ彦根店の辺りが境内地で、ネクステージの建物のところが拝殿、更に山側に本殿があったようだ。

千代神社本殿(国指定重要文化財)
桃山末期から江戸初期の建造物として昭和24年2月に国宝に指定され、その後の法の改正によって昭和25年8月重要文化財建造物となった。構造形式:三間社流造、檜皮葺(写真・絵葉書 千代神社提供)

どのような経緯で現在の京町に移ったのか?

千代神社の隣接地に野沢石綿セメント株式会社の工場が建設され、セメントの粉塵が降ってくるようになった。調べてみると、工場ができたのが昭和8年。昭和28年には月約2万トンを生産している。昭和38年、月産10万トンを目標に工場の拡張増設が計画され、神社境内地譲渡の申し出があった。神社は、長年降り積もったセメント粉塵に悩まされ、雨が降ると、屋根を流れた雨水が樋の形に固まるほどだったという。
国指定重要文化財の本殿の護持と神域保全をはかる目的で移転が決定され、文化財保護委員会の許可を得て、昭和41年3月に移転工事の竣工、5月に遷宮祭が斎行され、現在地(当時の町名は外馬場町)が悠久の静宮となった。

移転前の千代神社全景(渋谷博氏撮影)

千代神社の創建年代はよく判らない。社伝には、第八代孝元天皇(こうげんてんのう)の皇女倭迩迩姫(やまとととひめ)の降誕によって勧請し、履中天皇(りちゅうてんのう)の御代に再建されるとある。孝元天皇は紀元前273年〜158年の人物であるので、彦根で最も古い神社になるのだろう。当初は千代宮(ちよのみや)といい、「姫袋」というところにあった。かつて藤原氏の荘園があり、藤原不比等の娘が住んでいたという。千代神社と呼ばれるようになったのは明治2年からだ。

千代宮の二度の移転

石田三成が佐和山城主になった天正18年(1590)頃、千代宮は姫袋の地より彦根山麓の尾末の地(現在の護国神社の辺り)に移された。三成が神様を見下ろすことを憚ったのだろうといわれている。そして、彦根城の築城のとき、再び、姫袋の地に移築された。その後は、井伊家歴代の崇敬も篤く、造営修復が行われている。
ほとんど資料は残されていないが、『長光寺覚書』や『慈性日記』(多賀町安養寺蔵・慶長19年〜寛永20年に至る日記)、『井伊家年譜』などに千代宮の記述がある。長光寺は彦根銀座の北側にある薬師如来を祀る寺だ。
姫袋から尾末に移された千代宮は荒廃しており、井伊直孝の命で、寛永9年(1632)の春に長光寺で御霊をあずかり、尾末から姫袋への遷宮の時期は寛永15年(1638)、『井伊家年譜』には「千代宮長光寺より遷宮有之御修履也」と記されている。
この寛永15年の遷宮で新築した本殿が国指定の重要文化財である。本殿は境内からはほとんど見えない。全体に漆や極彩色が施され、輪郭内を植物の彫刻で統一した蟇股(かえるまた)、大柄なひまわりや牡丹を彫った手挟(たばさみ)のほか、木鼻(きばな)、虹梁(こうりょう)など、意匠の優れた装飾が随所にみられる華やかな建物である。

国の重要文化財千代神社 本殿向拝正面(絵葉書 千代神社提供)

「わざおぎ」の始祖神、天宇受売命(あめのうずめのみこと)

千代神社の主祭神は天宇受売命。天岩戸(あめのいわと)神話や、天孫降臨神話で活躍する女神である。
天照大神(あまてらすおおみかみ)が須佐之男命(すさのおのみこと)の乱暴を嘆き天岩戸に籠り、世界が闇になった。そのとき天宇受売命が神懸かりし歌舞されて、世の平安と明るさを取り戻した。故に天宇受売命は俳優(わざおぎ)の始祖神・芸能の守護神として歌舞・演劇等の諸芸にたずさわる人の信仰を集めている。
全国的に天宇受売命を祀る神社は数少なく、主祭神として祀る神社は千代神社のみである。

本殿外陣内部側面(鳳凰草花彩画)(絵葉書 千代神社提供)

ところで、千代神社の脇祭神は猿田彦命(さるたひこのみこと)で、天宇受売命とは夫婦の関係にある。「みちひらき」の神として知られ、前に進むための道を切り開いてくれるという。新型コロナウイルスの感染拡大による不安を抱える現在、千代神社に参拝すれば、未来が見えてくるに違いない。

千代神社 滋賀県彦根市京町2丁目9-33