彦根の地で民窯として始まり、井伊直亮、直弼の時代に彦根藩の庇護のもと、藩窯として黄金時代を迎えた湖東焼。多くの優品が焼成されたが、直弼の死後パトロンを失い明治28年(1895)に廃窯となってしまった。Case File 4は湖東焼の再興に尽力する一人の陶芸家に話を伺った。
土鍋ブームの火付け役
信楽の窯元に生まれた中川一志郎さんは昭和57年、母の実家があった彦根にやってきた。「幻の名窯」といわれる湖東焼の再興を地元から依頼されてのことだった。果たしてできるかどうか、陶芸家としての将来、生活にも不安があったという。
転機は平成5年頃だった。当時日本は深刻な米不足に陥り、海外から緊急輸入が行われたが、タイ米などインディカ米は日本人の嗜好に合わず普及しなかった。中川さんは「美味しくお米が炊けないか」と考え、自分用に土鍋をつくり始めた。
その土鍋は質の良さから料亭などへ口コミで広がり、やがて各メディアにも多く取り上げられ、土鍋ブームが訪れる。意図しなかった土鍋のブルーオーシャンは、中川さんの湖東焼再興のバックボーンとなった。
近年ではコロナ禍でお家時間が増え、さらに国内外からも注文が殺到し、ネット受付を休止。現在は半年待ちの状態だ。しかし一志郎作品を愛し、その価値を感じてくれる人に最高の作品を届けたいと、決して機械化や弟子をとり、量産することはしない。一つひとつ丁寧につくられた土鍋は図らずも市場では希少性の高いものになった。
湖東焼を後世へ
素地の精巧さ、薄手つくり、絵付け、釉薬の肌の滑らかさ、発色の鮮やかさなど、国中の名だたる名工たちをヘッドハンティングし生み出された湖東焼は定義づけや特徴を述べることが難しい。しかも藩窯の全盛期は短い。
昭和61年、彦根の有志によって「湖東焼復興推進協議会(後に法人化した現NPO法人湖東焼を育てる会)」が発足された。現在、中心人物である中川さんは子どもたちに湖東焼の魅力を知ってもらい、未来へ継承して欲しいと、自ら小中学校へ出向き授業と陶芸体験を行っている。
授業を通して「好きなものを突き詰められるということはとても幸せなこと。好きなことを見つけて精一杯向き合うことの楽しさを知ってほしい」そんな思いも伝えたいと教壇に立っているという。
「土鍋がなければ、湖東焼の研究も続けられなかったかもしれません。運がよかったんです」。そう話す中川さんだが、ただ良いものをつくりたいという真っすぐな思いに導かれ、人々を魅了してきた必然の結果なのではないだろうか。
今年秋には、窯元に併設した茶房「みごと庵」をリニューアルオープンする。一志郎土鍋を使用した料理を楽しめる飲食店をご子息とともに計画中だ。国内外からの誘客も大いに期待できるに違いない。
看板猫ニャンのこと
NHKの「岩合光昭の世界ネコ歩き」 に出演した猫のニャン。一志郎窯の看板猫である。
実はニャン、一志郎窯の前で行き倒れになっていたところをニャンチュールならぬワンチュールで助けられたという過去を持っている。
ニャンは猫らしくマイペース。彦根現存最古の足軽組屋敷林家住宅の辺りでのんびり暮らしている。窯を訪れる人々に可愛がられる人気者なのだ。