彦根市中央町の長松院

陸船車(埼玉県本庄市)

緊急事態宣言が発動される以前、日本がまだ東京オリンピック開催に燃えていた3月19日。朝日新聞に「『最古の自転車』復元 世界へ発信のチャンス」という記事が掲載された。足踏みで歯車を回して船に付いた車輪を駆動させる仕組みの「陸船車(りくせんしゃ)」である。享保14年(1729)、武州北堀村(埼玉県本庄市北堀)の庄田門弥が発明したものだ。「陸船車」を復元し、東京オリンピックの聖火リレーで車体の後方にトーチを挿して走らせる計画だと報じていた。

「最古の自転車」復元、世界へ発信のチャンス TOKYO2020 - 朝日新聞

世界最古の自転車といわれるドライジーネは1818年の発明。2つの車輪を一直線に並べ、ハンドルを付け、それにまたがり、足で地面をけって走った。 ペダルが付いたのは1861年。ミショー型と呼ばれ日本へは明治初期に紹介された。確かにヨーロッパの自転車の発明よりもおおよそ100年早い。

新製陸舟奔車(滋賀県彦根市)

「最古の自転車」は、彦根藩士の平石久平次時光(1696〜1771)が発明した「新製陸舟奔車(しんせいりくしゅうほんしゃ)」ではなかったのか!!
平石は、『新製陸舟奔車之記』を記し、享保17年(1732)、時速3里半(13㎞)、坂でも登る「自走車」を試作し、走行に成功しているではないか!!
平石の「新製陸舟奔車」は庄田の「陸船車」発明より3年の遅れをとっている。『新修彦根市史 第二巻』に「武蔵国児玉郡北堀村(現埼玉県本庄市)の百姓門弥が陸を走る船「陸船車」をつくったという噂を聞き、享保十七年に制作したという」と記されている。
最古の自転車は「陸船車」なのだろうか……?

世界初の自転車はどっち?

この疑問を解消してくれたのは「Critical Cycling」というウェブサイトに掲載された一文だった。「新製陸舟奔車之記には、先立つ1729年に製作された四輪の千里車、それを改良した三輪の陸船車の概要が記載されている(中略)これらの評判を聞いた久平次は、実物を見る機会がないまま、独自の創意工夫で新製陸舟奔車を完成させたと言う。千里車と陸船車は、小型の水車に似た歯車を足で踏んで推進力を得る。これに対して新製陸舟奔車はクランク・ペダル方式であり、効率化と小型化に貢献した。また、千里車は方向転換ができなかったが、陸船車はハンドルを備え、新製陸舟奔車に引き継がれている」。
つまり、平石が独自に考えたクランクとペダルを実装した「新製陸舟奔車」こそが世界初の自転車なのである。

長松院と平石久平次

久平次の遺書が納められた「三重の鉄塔」(写真提供: 長松院)

現在は三重の鉄塔の台座のみが遺されている

久平次は、明和8年(1771)8月、76歳でこの世を去った。平石弥右衛門は、父・久平次の業績を子孫に伝えるため、長松院(彦根市中央町)境内に三重の鉄塔(約8m)を建立し、平石の遺書(医術・軍学書・七曜暦・月蝕の算出法・柔術書・馬術書など376冊、また藩の記録・奉行所の記録など148冊)及び平石家役向の記録文書などを納めた。現代でいうタイムカプセルである。
大正3年(1914)、平石重章は祖先の業績を広く世に伝えようと開扉し、大部分を横浜に持ち帰ったが、大正12年(1923)関東大震災にあい、その大部分を焼失する。
昭和8年(1933)彦根町史編纂委員の要請により鉄塔を再び開扉、その残りを彦根市立図書館で目録を作成・整理したものが 「平石家文書」 である。三重の鉄塔は第二次世界大戦中に供出され、御影石の台座のみ長松院境内に今も遺されている。
現在、長松院では「新製陸舟奔車」のことを知ってもらおうと、久平次の墓を本堂前に移した。

本堂前に移された久平次の墓

2021年 東京オリンピック

アフターコロナの来年、聖火リレーがどうなるかは解らないが、「陸船車」が車体にトーチを挿して走るならば、彦根で「新製陸舟奔車」を走らせるのは今からでも可能だろうか?
世界初の自転車がどちらかを競うのでない。地域を深耕するためだ。世界へのステージは既に用意されているのだから。

長松院 滋賀県彦根市中央町4-29