松峯山金剛輪寺(愛知郡愛荘町松尾寺874)は天平13年(741)に聖武天皇の勅願で行基によって開山された古刹である。本尊の聖観世音菩薩(秘仏)も行基の作と伝えられている。平安時代のはじめには、比叡山延暦寺の慈覚大師が来山、天台密教の道場となり、天台宗の大寺院となった。
多賀大社は「お多賀さん」の名で親しまれる近江を代表する神社である。和同5年(712)に撰上された日本最古の書物『古事記』に「伊邪那岐大神は淡海の多賀にまします」と記され1300年余の歴史をもつ。
西明寺は承和元年(834)平安時代初期、仁明天皇の勅願により三修上人(慈勝上人)が開山したと伝わる。令和2年(2020)、本堂(瑠璃殿)内陣の本尊・薬師如来像前の西柱と南柱を赤外線撮影したところ菩薩立像が4体ずつ描かれていることが判り、創建年代は飛鳥時代(592〜710)にまで遡る可能性があるという。
高宮寺の歴史は古く、奈良時代に行基大僧正と婆羅門僧正が伽藍を建立して「称讃院」と号したのが始まりである。鎌倉時代中期、弘安2年(1279)、時宗の開祖であり踊り念仏でよく知られる一遍智真上人が諸国遊行の途中、称讃院で賦算を行った。そしてこの時、北殿の高宮氏初代宗忠が、一遍の威徳を仰いで一宇を建立。
天寧寺(彦根市里根町)は、文政2年(1819)彦根藩井伊家11代直中が建立した曹洞宗の禅寺である。井伊家2代直孝が初代直政の生母の菩提を弔うため、彦根城下に建立した宗徳寺が起源という。この寺を直中が当地に移したとき、寺名を天寧寺と改めた。
彦根は槻御殿と松原下屋敷(松原町515)の二つの下屋敷が遺る数少ない城下町だ。琵琶湖畔の松原に造営された「旧彦根藩松原下屋敷」は「お浜御殿」という名で親しまれている。庭園は、平成27年(2015)4月に認定された日本遺産「琵琶湖とその水辺景観~祈りと暮らしの水遺産」の構成文化財である。
井伊直中は彦根藩第11代藩主である。明和3年(1766)、第10代直幸の7男として江戸で生まれた。日本を開国に導いた直弼の父である。幼少時は江戸で過ごし、安永3年(1774)、彦根に引っ越し、城下の広小路御屋敷で暮らすことになった。直中はこの屋敷で剣術、鎗術、弓術、鉄砲、手習い、漢文、儒学などを学んだ。この時の学問修得はのちの直中の藩政に大きな影響を与えることになる。
明治5年(1872)、政府は群馬県富岡に官営器械製糸場を開設した。彦根からも近代製糸技術を学ばせるため、明治8年頃より士族の子女を多数の富岡製糸場に送り出している。
金亀会館は、彦根藩校「弘道館」講堂である。大正12年に彦根城第二郭(現彦根市立西中学校グランド)から移築された藩校の唯一現存する建物だ。
さて、今回は「佐和山城城門の行方」である。宗安寺赤門や妙源寺山門など、彦根市及びその周辺に遺る石田三成記念物を紹介したい。
佐和山の麓、お椀を伏せたようなこんもりした山に仙琳寺(古沢町946)がある。表参道は現在、JRをまたぐ陸橋を渡らなくてはならない。踏切だった頃までは多くの人が訪れたという。
大洞弁財天の近く、JRの線路沿いに大坂の陣で亡くなった人々の供養碑がある。元禄12年(1699)、彦根藩第4代井伊直興の建立である。大坂の陣は関ヶ原合戦後の二重公儀体制の破綻により、江戸幕府が豊臣宗家を滅ぼした戦いである。
「きせない行列」ともいわれるこの祭りは、上河原町・袋町・橋本町・登り町で受け継がれていたが、昭和初期に途絶えてしまったという。
「オオトックリイチゴ」はバラ科キイチゴ属の一種で彦根城の固有種である。平成になって天秤櫓前に株分けされたものが観光客に公開されている。
森川許六は明暦2年(1656)、代々武術指南役を務める彦根藩士の家に生まれた。21歳の時に彦根藩第三代井伊直澄に仕え、元禄2年(1689)に300石を禄した。
城下町の整備が進む元和3年(1617)、彦根藩第2代直孝が遠江国井伊谷(現:静岡県引佐郡引佐町)の龍潭寺五世の昊天崇建禅師(南渓禅師の弟子)を招き創建したのが、佐和山の麓の龍潭寺である。
彦根城でもうすぐ桜の花が咲き誇る。日本の桜の名所のほとんどは、紀元二千六百年記念や戦後復興の町づくりとして植えられたものだといわれている。実は、彦根城の桜は、吉田繁次郎が昭和9年(1934)に植え始めたものだ。紀元二千六百年記念の桜よりも更に古い。
『茶湯一会集』は井伊直弼が著した茶書である。茶事について、心構え、準備など全てのプロセスを具体的に述べたもので、現在でも流派を問わず茶の湯のバイブルとして用いられている。
「埋木舎」と呼ばれる建物は、宝暦9年(1759)に藩の公館として建築されたものだ。この一画は尾末町と呼ばれ、100石前後の中級藩士の屋敷が並ぶ武家町だった。
2021年NHK大河ドラマ「青天を衝け」、主人公は「渋沢栄一」。商工会議所の創始者でもある。「企業は利益を上げなければならないと同時に、公益についても考えなければならない。両者は高い次元で両立する」という渋沢の理念は、会議所の活動理念そのものだ。
宗安寺は、現在の夢京橋キャッスルロードの琵琶湖側、ほぼ中央に位置し、「赤門」「朝鮮通信使宿泊所」で知られる寺である。江戸時代には彦根藩の集会所の役割を果たし、大坂冬・夏の陣戦死者の追弔会や、明治5年(1872)廃藩置県後には一時犬上県庁が設置されたこともあった。彦根の歴史を語るうえでも重要な寺である。
宗安寺は彦根藩初代井伊直政と共に在った上野国(現群馬県)の安国寺に由来する。安国寺は、足利尊氏・直義兄弟が室町幕府の全国平定を願い、暦応元年(1338)からおよそ10年の間に、各国に一寺を選び安国寺の称号を与えた中のひとつだ。
長曽根港は明治17年(1884)、地元の醵金をもって築港された。今も残る波止一文字(なみどめいちもんじ)は、彦根の経済の発展を願った先人の物語が潜んでいる。
スミス記念堂は、キリスト教日本聖公会彦根聖愛教会のアメリカ人牧師のパーシー・アルメリン・スミス氏が、両親への感謝の思いと両国民の平和交流を願い、昭和6年(1931)に建設したものだ。
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