では、直弼公の茶の湯とはどのようなものであったのか……。天保2年(1831)、直中公の死去を契機に直弼公は、後に埋木舎と自ら名付ける「尾末町屋敷」に移り住むことになる。
直弼公は、江戸時代後期を代表する茶人である。埋木舎で過ごした青年時代から先人の茶書をひもとき研鑽を積み、茶会の開催や茶書の執筆、茶道具の制作などに熱心に取り組んでいる。
城下町の西、雨壺山の麓にある長久寺は、高野山の善應僧都によって長久3年、平安時代に開創された寺である。延久年間、後三条天皇の帰依あつく、皇后の祈願所となっていた。江州彦根観音とも呼ばれ、観音堂に本尊千手観世音菩薩(聖徳太子作伝)を祀る古刹である。
石塔寺本堂横の158段の長い石段を登ると塔頂山と呼ばれる山の頂にでる。かつて五木寛之は「そこに広がる“石の海”はこの寺がかつて信仰の中心であったことを物語っている」と著した。石の海のなかに立つ高さ7.45mの三重石塔が「阿育王塔」(7世紀飛鳥時代)である。
百済寺の本堂は室町時代の明応7年(1498)に火災にあい、文亀3年(1503)の兵火をうけ、さらに織田信長によって天正元年(1573)焼失。その後10年余、荒涼たる有様だったが、天正12年(1584)、堀秀政が仮本堂を建て、慶長7年(1602)には146石5斗の地が寺領となった。
「百済寺」は推古14年(606)、聖徳太子の勅願により開かれた近江最古の仏教寺院である。2022年は聖徳太子の薨去1400年目にあたり秘仏・百済寺本尊の御開帳があった。全高3.2mの十一面観音で、現存する奈良時代最大級の木造仏である。長身だが頭部が小さく、正面の彫り具合は浅く、立体感が少ない。都の仏像と違い素朴で親しみやすいといわれる。
長命寺は、平安時代前期に寺院の基盤ができたと考えられている。その後、鎌倉時代に源頼朝が近江源氏秀義の追善のために、嫡子定綱(さだつな)に命じて本堂、釈迦堂・薬師堂・太子堂・護摩堂・宝塔・鐘楼・仁王門などを建立した。
西国三十三所第31番札所の「長命寺」(近江八幡市長命寺町157)は、琵琶湖畔にそびえる長命寺山(標高333m)の山腹にある古刹で、中世以降、山内に多くの寺房を構えた「一山寺院」である。麓から本堂まで808段の長い石段を登ると、諸堂の屋根のラインが美しく重なりあう長命寺のよく知られた光景や琵琶湖と山々の雄大な景色を見ることができる。
江戸時代に妙薬として広く知られた「赤玉神教丸」を製造販売する薬店の本店が、有川家住宅(有川市郎兵衛家)である。赤玉神教丸は、下痢・腹痛・食傷などに効果のある妙薬で、多賀大社の神教によって調合したのでその名がある。
清瀧寺徳源院は、中山道の柏原宿の近く、清滝山の山麓にある寺である。弘安9年(1286)京極家初代の氏信が京極氏の菩提寺として創建した。寺号は氏信の法号「清瀧寺殿」に由来し、比叡山延暦寺に属する天台宗の寺で山号を霊通山と称する。
勝楽寺は、道誉41歳のとき現在の犬上郡甲良町に開いた寺である。ここに道誉は館を構え、応安6年(1373)78歳で生涯を閉じるまで隠棲した。道誉の念持仏といわれる本尊の「木造大日如来像」(平安時代)は、静かに考える秀麗な姿が際立ち、国指定の重要文化財になっている。
松峯山金剛輪寺(愛知郡愛荘町松尾寺874)は天平13年(741)に聖武天皇の勅願で行基によって開山された古刹である。本尊の聖観世音菩薩(秘仏)も行基の作と伝えられている。平安時代のはじめには、比叡山延暦寺の慈覚大師が来山、天台密教の道場となり、天台宗の大寺院となった。
多賀大社は「お多賀さん」の名で親しまれる近江を代表する神社である。和同5年(712)に撰上された日本最古の書物『古事記』に「伊邪那岐大神は淡海の多賀にまします」と記され1300年余の歴史をもつ。
西明寺は承和元年(834)平安時代初期、仁明天皇の勅願により三修上人(慈勝上人)が開山したと伝わる。令和2年(2020)、本堂(瑠璃殿)内陣の本尊・薬師如来像前の西柱と南柱を赤外線撮影したところ菩薩立像が4体ずつ描かれていることが判り、創建年代は飛鳥時代(592〜710)にまで遡る可能性があるという。
高宮寺の歴史は古く、奈良時代に行基大僧正と婆羅門僧正が伽藍を建立して「称讃院」と号したのが始まりである。鎌倉時代中期、弘安2年(1279)、時宗の開祖であり踊り念仏でよく知られる一遍智真上人が諸国遊行の途中、称讃院で賦算を行った。そしてこの時、北殿の高宮氏初代宗忠が、一遍の威徳を仰いで一宇を建立。
天寧寺(彦根市里根町)は、文政2年(1819)彦根藩井伊家11代直中が建立した曹洞宗の禅寺である。井伊家2代直孝が初代直政の生母の菩提を弔うため、彦根城下に建立した宗徳寺が起源という。この寺を直中が当地に移したとき、寺名を天寧寺と改めた。
彦根は槻御殿と松原下屋敷(松原町515)の二つの下屋敷が遺る数少ない城下町だ。琵琶湖畔の松原に造営された「旧彦根藩松原下屋敷」は「お浜御殿」という名で親しまれている。庭園は、平成27年(2015)4月に認定された日本遺産「琵琶湖とその水辺景観~祈りと暮らしの水遺産」の構成文化財である。
井伊直中は彦根藩第11代藩主である。明和3年(1766)、第10代直幸の7男として江戸で生まれた。日本を開国に導いた直弼の父である。幼少時は江戸で過ごし、安永3年(1774)、彦根に引っ越し、城下の広小路御屋敷で暮らすことになった。直中はこの屋敷で剣術、鎗術、弓術、鉄砲、手習い、漢文、儒学などを学んだ。この時の学問修得はのちの直中の藩政に大きな影響を与えることになる。
明治5年(1872)、政府は群馬県富岡に官営器械製糸場を開設した。彦根からも近代製糸技術を学ばせるため、明治8年頃より士族の子女を多数の富岡製糸場に送り出している。
金亀会館は、彦根藩校「弘道館」講堂である。大正12年に彦根城第二郭(現彦根市立西中学校グランド)から移築された藩校の唯一現存する建物だ。
さて、今回は「佐和山城城門の行方」である。宗安寺赤門や妙源寺山門など、彦根市及びその周辺に遺る石田三成記念物を紹介したい。
佐和山の麓、お椀を伏せたようなこんもりした山に仙琳寺(古沢町946)がある。表参道は現在、JRをまたぐ陸橋を渡らなくてはならない。踏切だった頃までは多くの人が訪れたという。
大洞弁財天の近く、JRの線路沿いに大坂の陣で亡くなった人々の供養碑がある。元禄12年(1699)、彦根藩第4代井伊直興の建立である。大坂の陣は関ヶ原合戦後の二重公儀体制の破綻により、江戸幕府が豊臣宗家を滅ぼした戦いである。
「きせない行列」ともいわれるこの祭りは、上河原町・袋町・橋本町・登り町で受け継がれていたが、昭和初期に途絶えてしまったという。
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