公衆グラウンド
『鬼龍院花子の生涯』(東映・1982年製作)は、五社英雄監督が宮尾登美子の同名小説を映画化した作品だ。大正末期から昭和の土佐が舞台の、侠客・鬼龍院政五郎と彼を取り巻く女たちの物語である。夏目雅子の「なめたらいかんぜよ」の台詞を覚えている人は多いだろう。実はこの映画のオープニングは彦根城で撮影されている。人力車が走るシーンだ。公衆グラウンド、二の丸、玄宮園前の道、滋賀大学彦根キャンパスの正門辺りから撮ったのだろう中堀沿いの道も映っている。
「公衆グラウンド」は、大正13年(1924)、皇太子御成婚記念に「御殿跡公衆運動場」として竣工し、市民の誰もが自由に使用でき、運動会や様々なイベントに利用された。昭和39年(1964)東京オリンピックの後に、国民の体力と健康の増進のため行なわれるようになった「歩け歩け運動」では公衆グラウンドが集合場所だった。昭和40年(1965)には自動車ショーがあり戦車が登場、相撲の巡業なども行われていた。公衆グラウンドには現在、彦根城博物館が建っている。昭和58年(1983)9月、「彦根城表御殿跡」発掘の予備調査を開始、昭和62年(1987)2月、博物館開館、平成3年(1991)入館者50万人を達成した。
表御殿能舞台
表御殿は明治11年(1878)頃、旧体制の遺物として解体され、建物の多くが公売に供されたが、能舞台は井伊神社に移された。昭和25年(1950)、腐朽荒廃が甚だしく、彦根市によって沙々那美(さざなみ)神社境内に補修移築されることになった。沙々那美神社は現在、駐車場になっているが彦根市民会館が建っていた場所である。そして昭和38年(1963)、市民会館建設にともない護國神社に移築され、昭和60年(1985)、彦根城博物館の建設に際し、再びもとの位置へ移築復元されるという数奇な運命を辿った。この能舞台は寛政12年(1800)、彦根藩井伊家第11代直中が建てたものだ。表御殿の中で唯一現存する江戸時代の建物である。
諸刃の剣
日本の生産年齢人口は40年後には現在の7700万人から4400万人に減少すると推計されている。その経済パイの穴を埋めるために、最も負担が少なく費用対効果が高いのが観光産業やインバウンド誘致だといわれている。世界遺産登録は、「顕著な普遍的価値」が世界中の人々に認められ知名度が上がる、究極のブランディングだ。
2018年12月13日、観光戦略の専門家デービッド・アトキンソン氏を迎え、「海外から見た彦根、そして世界遺産登録の可能性」と題して彦根ヒストリア講座が開催された。アトキンソン氏は「彦根城には素晴らしい価値とポテンシャルがある」とコメントし、「世界遺産登録と観光戦略は全く別物である」と警鐘を鳴らした。多くのインバウンドが訪れたとしても、充分に満足させることができなければ逆効果となる。世界遺産登録は諸刃の剣なのである。
観光動機には「行きたいところがある」「見たいものがある」「体験したいものがある」「会いたい人がいる」「飲みたい・食べたいものがある」など、多種多様な趣味趣向がある。国や県、市の特徴だけ打ち出しても観光産業は成り立たない。インバウンド全員が歴史文化に興味があるわけではない。「世界遺産でつながるまちづくりコンソーシアム」は、多面的かつ多様な視点で観光資源を発掘し、歴史文化に+αすることで相乗効果を生み、滋賀県全体で観光客誘致ができるよう広域連携の実現を目指している。
シビックプライド
明治4年(1871)の廃藩置県によって彦根藩が解体されると、彦根城は井伊家の手を離れ、明治新政府の兵部省、ついで陸軍省の施設となった。明治35年(1902)には、湖東の勝地を保存して広く内外から観光客の誘致を図るため湖東保勝会が設立されている。彦根城は、その時代、その時代の要請に応えてきた。
ただ登録は専門家の手に委ねられ、国の方針にも左右され、市民と彦根城の距離は徐々に遠くなるばかりである。
シビックプライドとしての彦根城世界遺産登録と広域連携は必至である。何故、表御殿の能舞台は遺ったのか……。ヒントはその辺りにあると思われる。シビックプライドとは何か、問い続けなければならない。