湖東平野を走り抜ける近江鉄道は「ガチャコン電車」の愛称で親しまれる地元の鉄道だ。今回の特集はまず3つの質問から始めることにする。

  • 質問1 近江鉄道はどのようにして誕生したのでしょう。
  • 質問2 鉄道「上下分離方式」の「上」と「下」とはどういう意味でしょう。
  • 質問3 彦根市内に近江鉄道の駅はいくつあるでしょう。

質問1 西武グループの創業者堤康次郎が愛荘町の出身故、西武鉄道がつくったと思っている人が多いかもしれないが、「旧彦根藩士が発議し、明治の近江商人の資力によって建設された鉄道」というのが正解。 質問2の正解は、ごく簡単にいうと鉄道の運行部分が「上」、施設部分が「下」。「上下分離方式」とは上と下を異なる運営主体が担うことをいう。 日本では、鉄道事業者が鉄道施設を保有し、運行する「上下一体」による運営が一般的だった。
令和6年(2024)4月1日、近江鉄道線は上下分離方式に移行し、車両や線路、駅舎などのインフラの保有管理(下)は県と5市5町でつくる「(一社)近江鉄道線管理機構」が担い、近江鉄道は運行・運営、サービスの提供(上)に専念することになった。
質問3の正解は、北からフジテック前、鳥居本、彦根、ひこね芹川、彦根口、高宮、スクリーンの「7駅」。沿線に高校や工場などが立地し、各駅の利用者を合計すると年間100万人以上が利用する通勤・通学になくてはならない鉄道だ。
近江鉄道が上下分離方式に移行することにより、沿線市町の費用負担の割合は「駅数」「営業距離」「住民定期利用者数」の3つの指標に基づいて算出される。東近江市20・67%、彦根市8.91%、甲賀市5.85%、近江八幡市3.81%など、残りの50%を県が負担する。ちなみに、駅数は東近江市13駅、彦根市7駅、甲賀市5駅、近江八幡市2駅、沿線の各町は1駅。駅の存在が近江鉄道線との関わりが大きく、それぞれ市町の費用負担の50%を占めている。
彦根市は、(一社)近江鉄道線管理機構に対し、安全輸送設備への投資費用、維持修繕費用、同機構の運営費を負担することになり、令和6年度については約1億8千万円程度を予定している。

地域の発展を願う鉄道

滋賀県では、明治22年(1889)に東海道本線(官設鉄道)が全通、翌年に関西鉄道(草津線)が開業している。しかしそのルートは湖東平野内陸の町からは遠く離れていた。
明治26年(1893)11月29日、近江鉄道の創立願書が、滋賀県在住の発起人44名から逓信大臣黒田清隆へ提出された。蒲生・神崎・愛知の三郡を横断し、東海道本線と関西鉄道とを連絡するもので、物産の輸送とともに、関西鉄道を経由して伊勢神宮に参拝する旅客の輸送も見込んだ地域の発展を期するものだった。
発起人は、すべて近江鉄道建設予定地から出ている。彦根町から大東義徹、西村捨三、石黒務、林好本、堀部久勝らの旧彦根藩士、近江商人として知られた人々としては、彦根の前川善平、愛知郡小田苅の四代小林吟右衛門、蒲生郡日野町の中井源三郎、小谷新右衛門、西村市郎右衛門、正野玄三、高井作右衛門、岡宗一郎、鈴木忠右衛門、藤沢茂右衛門などである。
主導権を握ったのは、旧彦根藩士であった。西村捨三は内務省土木局長、大阪府知事、農商務省次官を退官後、明治26年11月から北海道炭鉱鉄道の社長を務めた人物である。大東義徹は滋賀県選出の衆議院議員であり、明治31年(1898)には大隈内閣の司法大臣となる。彼らの働きかけに応じて、沿線の近江商人が発起人に参加したのだった。
鉄道の敷設は、東海道本線彦根駅を起点として、高宮・愛知川・八日市・桜川・日野・水口を経て関西鉄道深川駅に連絡する予定だったが、後に貴生川駅接続に変更されて完成した。
東海道本線全線の電化完成は昭和31年(1956)である。近江鉄道は電化を昭和3年(1928)に、一挙に完成させている。宇治川電気(現関西電力の一部)が、余剰電力の安定的な捌け口を長期に確保するために、非電化の近江鉄道を傘下に収め、その豊富な資金力に支えられて実現させたのだ。昭和6年(1931)、北陸から伊勢への誘客を図るため米原〜彦根間を開通させた。人々はスマートな電車に心を躍らせ、地域の発展に期待を寄せたことだろう……。

辛苦是経営

しかし、実のところ近江鉄道は、日清戦争後の物価上昇のため鉄道建設時から資金調達とその返済の苦心と苦悩のなかにあった。阿部市郎兵衛、小林吟右衛門、正野玄三などの近江商人らが郷土愛を発揮して救済に乗り出していなければ近江鉄道は確実に破綻していた。明治38年(1905)、取締役として残留し、背後から会社を見守ってきた西村捨三は、病を得て、「辛苦是経営」の碑を残して辞職している。
明治時代に誕生した私設鉄道の大半は現JR各線となり、他私鉄に吸収合併されて社名・線名などが変更されている。明治39年の鉄道国有法公布以前に存在した私設鉄道で、設立当時の社名のままで一切の変更なく、今日まで存続している私鉄は東の東武鉄道、西の近江鉄道の2社のみである。
最大級の私鉄大手ならともかく、地方の中小私鉄の近江鉄道が単独の鉄道企業として存続し、創立以来の伝統ある社名と社紋を今日まで維持できたのは、数々の経営危機を乗り越えてきたからに他ならない。
「辛苦是経営」の碑は近江鉄道本社横に今も建っている。

辛苦是経営の碑

新生近江鉄道

鉄道事業には、企業性と公共性(公益性)の2つの側面がある。事業として独立採算で経営が成り立つかどうかと、地域住民の移動手段などの社会的利益を目的とした運営である。
近江鉄道の鉄道事業は平成6年(1994)度以降営業赤字が続いていた。人口減少や設備の老朽化により、近江鉄道が民間企業の経営努力による事業継続は困難と決断し、滋賀県に協議を申し入れたのが(平成28年(2016)。沿線自治体が一体となった近江鉄道線の今後のあり方の検討が始まった。
そして上下分離方式への移行が自治体首長、近江鉄道、利用者、有識者などからなる法定協議会で決まったのは令和2年(2020)だった。
「地域公共交通活性化再生法」(平成19年)に基づく民間鉄道会社の上下分離は初めてであり、今、近江鉄道は「鉄道再生の新たなモデル」として注目を集め、視察が絶えない。
上下分離方式に移行した近江鉄道は、今後自治体と協力しながら、利便性の向上に取り組み、公共交通の利用を促進し、持続可能なまちづくりにつながる運行サービスに努めていく。
令和5年度、利用促進の取り組みとして、沿線地域で近江鉄道に関わる団体や個人が集い、それぞれの取り組みや意見交換会をする〈交流会〉の他、東近江市ほんまち商店街をメイン会場に、沿線の活性化を目的にした〈ガチャコンまつり〉、沿線内外から誘客を図る〈近江ナゾトキ鉄道「おばけ列車からの脱出」〉、滋賀県内在住の小学校3年生~6年生とその家族を対象とした〈夏休み親子近江鉄道体験ツアー〉〈季節イベント装飾電車運行〉などのイベントを実施。〈夏休みこども10円1デイパス〉や高齢者向け会員証〈シルバーパス〉を発行し利用促進に努めている。
〈夏休みこども10円1デイパス〉の売上は前年比135%、〈シルバーパス〉は沿線5市5町の65歳以上を対象に一乗車100円でできるパスで、昨年末には会員数は4000名を超えている。
令和2年から東近江市の主催で実施している〈近江鉄道全線乗車キャンペーン〉では、実施前後の販売実績を比較すると大人が225%増加、子どもが962%増となっている。
近江鉄道は今後、令和7年度(2025)中を目処にJR西日本の交通系ICカード「ICOCA(イコカ)」に参加し、更に利用者増を目指すなど、公共性(公益性)の強い地域に愛される鉄道として再生していく。

広域連携の要となる鉄道

彦根商工会議所は世界遺産でつながるまちづくりコンソーシアムとともに、現在、琵琶湖の湖上交通に着目した広域連携を実現しようとしている。
令和5年(2023)、白洲信哉氏を招聘した「近江ヒストリア講座」でとりあげた西明寺、金剛輪寺、百済寺、石塔寺、長命寺の最寄り駅は近江鉄道である。更に、蒲生野、甲賀へと続く鉄道沿線は日本文化の深淵に迫る地域であり、食文化も豊かだ。
120年余前、旧彦根藩士と近江商人は、近江鉄道鉄道建設による地域振興を目指し広域連携を成し遂げた。それはダイナミックな挑戦だった。
彦根城の世界遺産登録というアドバンテージを活かす次なる広域連携の要となるのは近江鉄道だろう。
設立当時の社名のまま近江鉄道株式会社は長寿記録を更新し続けていく。「辛苦是経営」の碑を遺した西村捨三は、上下分離という歴史的な出来事をどんな思いで見守っていたことだろう。