今年の3月、宮司に就任された山本大司さんは、幼い頃から神職である祖父や父の背を見て、いずれはこの道を歩むのだろうと漠然と感じていた。大学卒業後は、学問の神様・菅原道真公を祀る京都の北野天満宮で3年間奉職した。毎月25日に開催される縁日「天神さんの日」には、骨董品や古着、食べ物の屋台が並び、多くの参拝客や観光客で境内が埋め尽くされる。「あの賑わいを目の当たりにして、いつか彦根でも人々が自然と集まれる場所を作りたい」と強く思うようになったという。その想いを胸に、平成14年(2002)に故郷・彦根へと帰ってきた。
地域の新たな賑わい朝市とイベントの始まり
彦根に戻ってきてからは、40歳で滋賀県神道青年会を卒業したのを機に、当所青年部に入会。「賑わいの場を作りたい」という想いは、思わぬ形で、そして想像以上のスピードで実現していった。現在、毎月第3日曜日に開催され、多くの人で賑わう「ひこねで朝市」だ。「朝市の実行委員長との雑談の中で新たなアイデアとして生まれました。最初は、神社をイベントで使っていいのか、という雰囲気も正直ありました。しかし、まずはやってみようと貸し出したところ、多くの人に訪れていただき、境内は笑顔で溢れました」と山本宮司は当時を振り返る。
現在では朝市だけでなく、当所青年部が今年の夏に開催した「いろは松で盆BON夏祭り」や、秋の夜長に境内で地酒を楽しむ「神社酒場」など、様々なイベントが開催されるようになった。「ここは一等地にあるのに、普段は静かな場所です。だからこそ、地域の人々が気軽に集い、楽しめる場所にしたいのです」。その言葉通り、地域に開かれた交流の場へとその姿を変えつつある。
未来へ繋ぐ新たな“関わりしろ”
「護國神社は、今の平和が多くの方々の尊い犠牲の上にあることを静かに教えてくれる場所です。特別な用事がなくても、彦根城観光のついでに、あるいは日々の散歩の途中にでも、気軽に足を運んでいただければ嬉しいです。また、もしこの場所で地域を盛り上げるようなアイデアがあれば、ぜひ声をかけてください。この場所が、彦根の未来を創る新たな“関わりしろ”となり、皆さんと一緒に新しい歴史を紡いでいけるなら、これほど嬉しいことはありません」と山本宮司は言う。
今、彦根では彦根城世界遺産登録という大きな目標の実現に向けて取り組んでいる。江戸時代から一足飛びに現代になったわけではない。彦根の歴史を紡ぐとき、護國神社は彦根の近代史を語る上で欠かせない場所だ。彦根駅に降り立つと一直線に彦根城着見台の石垣が見える。そして真正面にあるのが護國神社だ。
神様の“依りしろ”という言葉がある。
護國神社は空間的、歴史的、そして精神的にも大切な“関わりしろ”なのである。
近代化遺産としての滋賀縣護國神社
近代国家の成立と地域社会の記憶をつなぐ場
「近代化遺産」とは、幕末から明治以降の日本が近代国家へ向かうなかで整備され、制度・産業・文化を形づくった痕跡を今に伝える建造物や文化的遺産を指す。近代化は工場や鉄道の発展だけではない。中央集権国家の成立、軍備制度や教育・地方行政の刷新、宗教政策や思想の変容など、社会の構造そのものを根底から作り替える巨大な転換であった。ゆえに、近代化遺産とは、物理的な建築物だけでなく、その背後に込められた国家形成の理念、そして地域社会が経験した近代の光と影を読み取る「記憶」としての性格をもつ。
招魂碑から護國神社へ
明治新政府は戊辰戦争の勝利を機に、天皇を中心とする新しい国家観を打ち立てるため、国家のために命を捧げた人々を顕彰する制度づくりを進めた。東京九段の招魂社(のち靖國神社)を原型として、各地に招魂社(のちの護國神社)が整備されていく。これらは宗教施設であると同時に、近代国家が「国民統合の記憶」を形にした装置であった。護國神社を近代化遺産として読み解く鍵は、この「記憶の制度化」という側面にある。
彦根の滋賀縣護國神社の源流は、明治2年(1869)に龍潭寺に建てられた戊辰戦争戦死者の招魂碑に遡る。明治8年(1875)4月、内務省布令により旧彦根藩主井伊直憲公が発議し、彦根町字尾末に招魂社の造営に着手する。同9年(1876)5月に竣工した招魂社は、昭和14年(1939)に滋賀縣護國神社と改称された。
戊辰戦争は、徳川譜代筆頭の彦根藩が「京都守護」という「大義名分」を掲げて朝廷側に与し、新政府誕生を決定づけた戦いである。井伊家は直政以来の「京都守護」という内命を代々受け、諸藩からもその立場は広く認知されてきた事実であった。
こうした歴史的背景のもと、彦根の招魂碑が招魂社、護國神社へと発展した過程は、明治国家形成の歩みと軌を一にしている。
戦没者の名を記録し功績を後世に伝えることは、新政府において国家理念を共有し、国民が国家の一員として自覚するための装置として重視された。今日、護國神社の境内に並ぶ北支沖縄戦没勇士慰霊碑、満蒙開拓移民の拓魂碑、戦没軍馬軍犬軍鳩霊之碑などの石碑群は、近代日本の戦争と国家政策が地域の生活にどのように影響したかを物語っている。追悼の場であると同時に、地域が経験した近代の苦難と献身の歴史を刻む「記憶の層」だ。
治の三筆 日下部鳴鶴
空海・橘逸勢・嵯峨天皇を「平安の三筆」という。優れた書道家を三人集めて三筆と呼ぶ。「明治の三筆」は、日下部鳴鶴・巖谷一六・中林梧竹である。なかでも鳴鶴は「近代書道の父」と称された人物である。護國神社の「戊辰従征戦死者碑」および「表忠臼礮記(ひょうちゅうきゅうほうき)」の揮毫を担った。
鳴鶴は天保9年(1838)、江戸の彦根藩邸に生まれた彦根藩士で、のち日下部家を継ぐ。「桜田門外の変」で藩主井伊直弼と養父を、さらに明治11年(1878)には「紀尾井坂の変」で大久保利通を失い、激動の時代を身をもって経験した。明治12年(1879)、官を辞して書の道に専念することを決意し、以後は山河を巡り、文人墨客との交流を深めながら独自の書風を極めていった。
明治という激動期に生きた一人の彦根人の人生が、地域の近代化の記憶と重なる……。
江戸から現代に一足飛びに至ったわけではない。地元に遺る護國神社は、彦根城と現代とをつなぐ「近代の入り口」を示す遺産である。今日、世界遺産登録を目前に控える彦根城を前に、護國神社を近代化遺産として再評価することは、この地域が経験してきた近代の意味を読み直し、その記憶を未来へ手渡す営みでもある。
護國神社は、近代という時代の息づかいを地域の歴史として読み解く記憶装置なのだ。