国指定重要文化財
長寿院弁財天堂附棟札・長寿院伽藍が国指定重要文化財である。中心となる弁財天堂は、元禄8年(1695)建立の棟札があり、寺院建築には稀な権現造の形式を有する。各所に彫刻を施し極彩色で彩る元禄時代建築の特色をよく表わしている。阿弥陀堂は入母屋造りで、外観よりは内部を荘厳にしているのが特徴的。

神仏習合の名残

「大洞の弁天さん」と親しみを込めて呼ばれるこの寺は、彦根藩井伊家4代直興の発願により、元禄8年(1695)から翌年の9年にかけて甲良大工が伽藍を建造したことで知られている。大洞弁財天の正式名称「真言宗醍醐派長寿院」は直興の院号に由来している。
彦根城の北東、表鬼門の方角約1.5キロ、佐和山から連なる大洞山(211メートル)の中腹にある。江戸時代は山裾まで松原内湖が迫り、藩主は船で参詣していた。麓の鳥居がある辺りが船着き場で、石組みが当時のまま残っている。表参道の鳥居を2つくぐり、5分ほど石段を登り詰めると楼門がある。振り返ると国宝の天守を戴く金亀山が見える。楼門をフレームに季節により変化する眺めは画集をめくるようだと「額縁の彦根城」と愛でる人も多い。

朝靄に浮かぶ彦根城(撮影 :岡田健三住職)

長寿院は神仏習合時代の様式がそのまま残り、弁財天の後ろに、天照大神・八幡・春日の三神を安置し、奥の院には更に鳥居があり宇賀神(うがじん、うかのかみ)を祀っている。宇賀神は中世以降信仰された神で、人頭蛇身、老翁の頭部をもち蜷局(とぐろ)を巻く白蛇の姿をしている。宇賀弁財(才)天は頭頂部に小さな鳥居を構え宇賀神を戴く造形である。
長寿院の弁財天は弘法大師の作、世田谷の光明寺の弁財天を貰い受け安置したと伝わる。両脇に一五童子、四天王を従え、彩色も美しい八臂(はっぴ)の座像で日本三大弁財天の一つとされる。八臂座像の弁財天は古い時代の造形であり、直興は異形神を祀る奥の院を設けることで宇賀神の御神徳も受けられるようにしたのではないかといわれている。

井伊直興と弁財天

直興は直孝から井伊家の跡継ぎに指名され、生まれながらにして井伊家を継ぐ者として育ち、延宝4年(1676)、21歳で井伊家当主となった。直興の時代は、5代将軍綱吉の治世と重なる。直興は将軍綱吉と個人的な信頼関係を築き、元禄元年(1688)、綱吉から日光東照宮修復普請の惣奉行を命じられた。徳川家康を祀る日光東照宮の修復工事は歴代将軍にとって重要な事業であり、直興は3度にわたり日光に滞在し、工事を指揮した。
直興は彦根で、下屋敷の槻御殿(現在の玄宮楽々園)の造営と弁財天堂の建立という2つの大きな普請をおこなっている。
直興は病気に悩まされていたこともあり、仏教を深く信仰しており、弁財天を祀る寺院を造ったといわれる。その建立に際しては、領内の藩士・庶民からひとり一文ずつの寄進を受けている。寄進者25万9526人、銭270貫余りが寄せられ、寄進したすべての人々の名を記録した大洞弁財天祠堂金寄進帳(全68冊・重要文化財)が彦根藩井伊家文書として伝わる。領民全てが寄進し「結縁」することで、弁財天のご加護があるようにと直興の強い願いを感じることができる。また、戦国時代に彦根藩領周辺を治めていた古城主や大坂の陣の戦没者の名札を掲げて供養している。
領民も一体となり、現在の彦根藩の繁栄の礎(いしずえ)となった先人たちを供養するという方式は、他には見られない独特のものだった。

彦根日光

現在の日光東照宮社殿群の多くは寛永13年(1636)の「寛永の大造替」により建て替えられたものである。甲良豊後守宗廣が大棟梁を務めた。宗廣は犬上郡甲良庄法養寺村の出身である。慶長9年(1604)に江戸に下り、徳川家康・秀忠・家光に重用され芝増上寺三門、鎌倉鶴岡八幡宮、増上寺台徳院霊廟、寛永寺五重塔などを手がけている。甲良大工は、甲良宗廣に始まり明治維新に至るまで11代にわたり、主要な幕府建築を担当した一派となった。
弁財天堂は日光東照宮と同じ権現造(ごんげんづくり)である。
権現造は本殿と拝殿を一体化し、その間に一段低い「石の間(相の間)」を設ける様式で、徳川家康の神号「東照大権現」からこの名がある。彩色と彫物を豊富に用いた日光東照宮は宗廣の代表作で、以後の神社建築のデザインに大きな影響を与えた。弁財天堂も、漆塗りや彩色の名残を留め、内外に素晴らしい彫刻が施されている。昭和になって、堂内で護摩祈祷をした時代があり煤がこびり付いてしまっているのは残念である。また、古城主や大坂の陣の戦没者を供養する阿弥陀堂の欄間には眠り猫が彫られている。大洞弁財天は彦根日光とも呼ばれている。直興は日光東照宮を見て心底感動し、領民にも見せたかったのかもしれない。

余談だが、大洞弁財天には「まめふく」という言い伝えがある。熱心な信者が毎日、願をかけ参っていた。 そうすると表参道の階段で「まめふく、まめふく」という声が聞こえたという。「まめに参れば福が来る」ということらしい。そうでなくては、一幅の絵画を愛で語る機会も訪れることはない。