井伊直興は、日光東照宮修造の惣奉行を務め、槻御殿(玄宮楽々園)造営や松原港、長曽根港も改修した当時の建設事業第一人者である。その直興自らが院主となり、彦根城の鬼門除けと領内の安泰と近江代々の古城主の霊を弔うために建立したのが大洞弁財天である。直興は仏教を深く信仰しており、領民全てが寄進し「結縁」することで、弁財天のご加護があるようにと強く願った。
直興が大洞に弁財天建立を思い立った理由はそれだけだろうか。

本堂阿弥陀堂(写真奥)・弁財天堂(写真中央)

鉄砲塔に込めた思い

弁財天堂横の阿弥陀堂には、阿弥陀如来、大日如来、釈迦如来の三尊が祀られている。「大洞の弁天さん」と親しまれているから、本尊は弁財天だと思っている人も多いが、本堂は阿弥陀堂、釈迦三尊が本尊である。本堂の右側にある供養塔には「鉄砲塔」という名がある。
直興は、幼少から狩猟が好きだった。延宝4年(1676)に彦根藩主となってからも、公務の合間を縫ってよく狩猟に出かけた。ある時、一羽の鶴を見つけ、これを鉄砲で射ち落としたが片方の脚に金札がつけてあった。
金札はかつて建久4年(1193)5月に源頼朝が富士の裾野で行った「大巻狩り」で着けられたものだった。1,000羽の鶴を捕まえ、その脚に金札を結び再び空へ放ち、この鶴を射落とした者は届け出るようにと諸国に命令を発したのである。「巻狩(巻狩り)」とは、中世に行われた狩猟方法の一種で、狩場を多人数で四方から取り囲み、囲いを縮めながら獲物を追いつめて射止めることをいう。
頼朝から直興までおよそ500年。この長命の霊鳥を遊びのために射ち殺したことを深く後悔し、弁財天を勧請することを発願したとも伝わる。そして鶴の供養のために建てたのが「鉄砲塔」である。おそらく信心深い直興のことである、自身の鉄砲を封印したのだろうといわれている。

本堂右にある「鉄砲塔」

一万躰の大黒天

松原内湖は昭和19年(1944)に食糧増産を目的とした干拓事業が開始され昭和23(1948)年3月に完了した。江戸時代の面影を知る由もないが、かつて石田三成が島左近に命じて架けさせた「百間橋」が架かっていた。橋は幅三間(約5.4m)、全長三百間(約540m)に及び、古絵図では松原内湖にクランク状に架かっている様子が描かれている。
大洞弁財天には百間橋改修の廃材で造らせたという「一万躰の大黒天」が祀られている。弁財天堂建立の4年後、元禄12年(1699)経蔵建立と同時に祀られ、楼門上に4千躰、経蔵に3千躰と伝わる。また、楼門上には金色の臼に座した等身大の「甲冑大黒天像」がインドの高僧で中国に仏像と教典を伝えた迦葉摩騰(かしょうまとう)・竺法欄(じくほうらん)の祖師像と共に安置された(現在は全て経蔵に移された)。甲冑大黒天は小槌と担いだ袋が無ければ大黒天とは判らぬほど厳しい表情をしている。
なぜ直興は、百間橋の廃材で造った1万躰に及ぶ大黒天を祀ったのか。

経蔵内部 一万躰大黒天(非公開)

大黒天はヒンドゥー教の最高神シヴァが仏教の守護神となり日本に伝わった天部の仏さまである。「大国主命」と音の読みがつながる事から習合し、現在大黒天の姿になった。シヴァは破壊と創造の神である。
彦根藩が当地を治めてきた石田三成の遺徳を脅威に感じていたことは確かである。直興は、佐和山城時代の記憶を上書きし、大黒天の姿を借りて新しい時代の到来を示し、三成に注がれていた領民の信頼を井伊家に向けようとしていたのではないだろうか。甲冑大黒天は、新しい秩序と安寧を約束する直興の決心を映した姿ではないだろうか。
ところで大洞弁財天には、大黒天に願をかけ自宅へ持ち帰り満願成就すれば、新しい大黒様と共にお返しするという習慣があった。創建以来300余年、経年による傷みで欠損しその数が減ってしまった。大洞弁財天岡田建三住職は、創建時の姿に戻すため「壱万体大黒天再興」を発願され、大黒天像の奉納を呼びかけている。
宝物とは何か……。改めて考えることが必要ではないだろうか。

経蔵内部 甲冑大黒天

復刻 一万躰大黒天

取材協力
大洞弁財天(長寿院)
参考
新修彦根市史・『城と湖のまち彦根 歴史と伝統、そして』(中島一著)他