BIWAKOビエンナーレ2020

今年10月10日〜11月23日の間、「BIWAKOビエンナーレ2020」が開催される。主催は文化庁・独立行政法人日本芸術文化振興会・国際芸術祭BIWAKOビエンナーレ実行委員会、制作は国際芸術祭BIWAKOビエンナーレ実行委員会が担う。
ビエンナーレ(biennale)は、イタリア語で「2年に一度」「2年周期」である。現在では2年に1度開かれる美術展覧会のことを指す。21世紀の幕開けとともに始まったBIWAKOビエンナーレは今年9回目、20年目の節目を迎える。会場は彦根市内(9か所)・近江八幡市内(9か所)。彦根会場は、彦根城の櫓や庭園、市街地の昭和レトロな商店街、昨年140年の歴史に幕を閉じた銭湯など。堀端に建つ和風礼拝堂「スミス記念堂」も会場となる。

彦根城堀端に建つスミス記念堂

映画の中のスミス記念堂

「鬼龍院花子の生涯」は昭和57年(1982)の五社英雄監督作品である。舞台は大正4年(1915)の土佐。鬼政と呼ばれた鬼龍院政五郎の生涯を描いた物語だ。オープニング、鬼政が乗った人力車が堀端を走る……。楽々園から玄宮園の内堀沿い、そして、スミス記念堂のある外堀沿いが、大正4年の土佐の風景としてえがかれている。その他、「鬼龍院花子の生涯」には、埋木舎、滋賀大学講堂、金亀公園から山崎郭を望む石垣横には東洋繊維の工場が映っている。当時の彦根を知る人には懐かしい1980年代前半の風景である。
また、昭和38年(1963)の「青い山脈」はオール彦根ロケの映画である。主演は吉永小百合。彦根市立西中学前の石垣のところから吉永小百合のバックにスミス記念堂が映っている。

稀少な和風礼拝堂

スミス記念堂は、キリスト教日本聖公会彦根聖愛教会のアメリカ人牧師のパーシー・アルメリン・スミス氏が、両親への感謝の思いと両国民の平和交流を願い、昭和6年(1931)に建設したものだ。
スミス氏は明治36年(1903)、28歳の時に来日。広島高等師範校で英語教師を、福井・金沢・京都などで布教活動に携わった。昭和元年から11年まで、彦根高等商業学校(現 滋賀大学経済学部)の英語教師を務めながら布教活動や文化活動に従事。日本の各地を歩いたスミス氏は、特に彦根城の美しさと彦根の人々に魅せられ、礼拝堂の建築を日米の多くの善意に支えられ実行に移した。昭和14年、健康悪化のため帰国。昭和20年オハイオ州で死去。遺骨と遺髪は彦根の教会にも納められた。

パーシー・アルメリン・スミス

記念堂は、花頭窓・唐破風・屋根など「和」を基調としながら、東西の様式が渾然一体となった独特の雰囲気を醸し出している。正面の観音開きの扉には、葡萄の蔓が巻き付いた十字架や松竹梅の文様が彫られており、釘隠し・欄干・瓦など、純日本風建築の中に西洋の意匠が違和感なく溶け込んでいる。

キリスト教の教会堂が和風建築を採用した事例の多くは、伝道を開始した幕末・明治初期に既存の日本家屋を借り受けたり、暫定的に日本家屋を建てて仮教会堂とした場合であって、いずれも積極的に和風意匠を採用したわけではない。(中略)各地で本格的に建設された教会堂のほとんどは、ロマネスクやゴシック様式を基調とした洋風建築である

『昭和期における日本聖公会の和風教会堂建築について 日本聖公会の建築史的研究』松波秀子・1992年

と記されるように、和風キリスト教教会建築は全国でも数例しかない。その1つがスミス記念堂だ。
聖公会の彦根伝道は明治13年(1880)に始まり、選任牧師が常駐したが仮教会を転々としていた。大正11年(1922)彦根市城町の現在地を購入し聖堂の建設準備を始め、大正15年(1926)スミスが着任し、設計もスミス氏が行ったとされている。

施主である外国人宣教師の強い意志で和風意匠が採用された。それは単なる日本趣味だけでなく、日本人にとってのキリスト教という問題に対する彼らの解答であり理想であった。彼らは企画者・施主として、始終工事に立ち会い、折に触れ施工者に設計意図を伝えて建設が進められた

『昭和期における日本聖公会の和風教会堂建築について 日本聖公会の建築史的研究』松波秀子・1992年

スミスは式服と一緒に常に大工道具を携帯するほどの建築好きであったといわれる。スミス記念堂は、スミスが長年暖めてきた考えの結晶であり、キリスト教が異国の宗教であるとみなされている一般的な考えを緩和するために貢献したいという願いがあったという。
宮川庄助(1897年生まれ)は、五個荘町で修業の後朝鮮へ渡り、大正8年(1919)彦根に戻った。義父が請け負った彦根教会の建設に参加した際にスミスと出会い聖公会信徒となった。以来、スミスの赴任した各教会をはじめ聖公会教徒教区内の十数余りの教会の新築増改築を手掛けている。尚、庄助は義父から学んだ新工法(ツーバイフォー)を用い、関東大震災の復興に尽力した人物である。

キリスト教独特の文様が純和風建築に彫刻として施されている。

礼拝堂の移築再建

昭和6年当時のスミス記念堂

さて、「鬼龍院花子の生涯」「青い山脈」に映ったスミス記念堂の風景は既に失われている。平成8年(1996)9月~同9年(1997)1月の間に行われた都市計画道路の拡幅工事により礼拝堂の取り壊しが決定されたのだ。現在の位置に移築されたスミス記念堂の前に建つ記念碑には次のように伝えている。

(前略)この記念堂は、スミス先生の御両親を祈念する心に育まれ,基督教を通じた日本と西洋の両文化の相互尊敬と国際交流という想いによって建てられたものである。私たちは、平成8年(1996)道路拡幅工事により失われる寸前にあった“スミス記念堂”を解体保存し、その再建運動に従事してきた。それは、御両親を敬愛するスミス先生の心と、日本の伝統的寺社建築様式を採り入れた国際交流の象徴ともいうべきスミス記念堂が、将来にわたっても彦根の地に存続し得るのか否かを試す長い年月でもあった。幸い、多くの彦根市民の御努力と彦根市の深い御理解により、彦根城を仰ぎ見るこの地がスミス記念堂再建の地として提供された。私たちは、この地をスミス記念堂の最終的な安住の地と定め、市民による彦根のまちづくりの拠点と位置づけ再建した。スミス記念堂再建の重要性は、その文化財的価値の高さは言うまでもなく、この建物に結晶したさまざまな精神にある。それは、人間として決して忘れてはならない普遍的な徳目や、和洋両文化を相互に敬愛するこころであり、彦根のまちづくりとともに次の世代へと確実に引き継がれるべきものである。

平成19年3月25日 特定非営利活動法人 スミス会議

平成19年、記念堂は国の登録有形文化財として登録され、NPO法人スミス会議が維持管理をしている。

再築は解体保存されていた部材を使い、朽ちた部分は取り換え、彫刻も復元された。スミス記念堂は、当時の部材を90%以上使用している。

近代化遺産と可能性

明治維新以降の近代化にかかわる、政治・経済・社会・教育・思想・文化・宗教といったさまざまな領域で推し進められた近代化事業の特徴を今によく伝えているモノが近代化遺産である。日常の風景にあり、それと知らなければ気づくこともない。
国宝・彦根城を二重に囲む濠端には、滋賀大学経済学部講堂・陵水会館・外国人宿舎・京橋・彦根地方気象台・長曽根港(旧彦根港)波止など、近代化遺産が点在し、近世遺産と共に独特の歴史的景観を生みだしている。   和風礼拝堂であるスミス記念堂も彦根の近代化遺産のひとつであり、彦根城を仰ぐ堀端に再築することが、この運動に関わった人々の願いだった。NPO法人スミス会議では、市民の宝物であるスミス記念堂を、様々なカタチで利用しながら大切に残してゆく選択をした。まちと記念堂の記憶、市民と来訪者が出会う場と時間を育みたい。
BIWAKOビエンナーレ2020は、コミュニティ・ツーリズムの可能性を示してくれるに違いない。

 

参考
『昭和期における日本聖公会の和風教会堂建築について 日本聖公会の建築史的研究』松波秀子・1992年
『スミス記念堂の保存活用をめぐる市民運動とまちおこし』筒井正夫・2004年
NPO法人スミス会議 ウェブサイト
新修彦根市史 他
お問い合わせ
NPO法人スミス会議
彦根市本町2-3-3
☎︎ 0749-24-8781