宗安寺は、現在の夢京橋キャッスルロードの琵琶湖側、ほぼ中央に位置し、「赤門」「朝鮮通信使宿泊所」(其の五 宗安寺(一)参照)で知られる寺である。彦根藩における徳川家康公御尊牌奉安所であり、「赤門」は佐和山城の大手門を移築したものだ。江戸時代には彦根藩の集会所の役割を果たし、大坂冬・夏の陣戦死者の追弔会や、明治5年(1872)廃藩置県後には一時犬上県庁が設置されたこともあった。彦根の歴史を語るうえでも重要な寺である。

宗安寺と赤門

赤門

彦根市本町の町名は、「城下町の町割の起点となった」という説と、「佐和山城下の本町が移された」とする2説がある。宗安寺の朱塗の表門は「赤門」と呼ばれ地域の人々に親しまれてきた。
赤門は「佐和山城の大手門」だったといわれている。元禄14年(1701)の彦根大火で宗安寺も全焼し、赤門だけが残った。学術的な調査の結果、城門の構造ではないことが判明したが、400年以上前の建造物であることは確かだ。安国寺を高崎から佐和山の麓に移したときに(其の五(一)参照)新しく設けた寺門を、本町に移築したのか、本町に移築するときに佐和山城の大手門の部材を使い建て直したのかそれとも全く新しく建てたのか、記録は残っていない。
石田三成を慕う人々が佐和山城の大手門を移築したのだと言い伝えたのではないか……。城下町で暮らす人々の思いが史実を上書きするように「佐和山城の大手門」が「赤門」として今も建っている。

宗安寺と大坂の陣

宗安寺は彦根の大火で全焼した後、元禄15年(1702)井伊家の助成を受け再興される。現在の本堂は、長浜城(内藤豊前守信成)の御殿を拝領して改造再建された。本尊の阿弥陀如来も井伊家家臣の所藤内(ところとうない)が、このとき寄進したと伝わる。この阿弥陀如来は大坂夏の陣のとき大坂城仏間にあった「淀殿の念持仏」を拝持したものである(鎌倉時代の作、県指定文化財)。
石田三成が佐和山の麓に建立した瑞岳寺(ずいがくじ)に安置されていた地蔵菩薩と千体仏は石田三成の念持仏である。佐和山城落城後、宗安寺末寺の称名院(彦根市錦町)で預かったが称名院が無住となり、宗安寺に受け継がれたものだ。

石田地蔵

千体仏

本堂左の墓地には「木村長門守重成首塚」がある。木村重成が歴史の舞台で注目を集めるのは大坂の陣である。豊臣秀頼とは乳兄弟の関係にあたる。NKH大河ドラマ『真田丸』でも登場し、記憶している人も多いだろう。
慶長20年(1615)5月6日、大坂夏の陣、若江の戦い。重成23歳。木村重成隊は井伊直孝隊と戦い井伊家の安藤長三郎17歳に討たれた。異なる話も伝わる。庵原助右衛門との一騎討に敗れ、安藤長三郎が首をもらい受けたというものだ。いずれにせよ、安藤家は宗安寺の檀家であり、その菩提を弔うために五輪の塔を建てた。その横に「木村長門守重成首塚」の石碑がある。

安藤家墓所横にある木村長門守重成首塚。明治の三筆と讃えられた旧彦根藩士日下部鳴鶴の揮毫である。鳴鶴は、明治維新後、太政官大書記官にまでなったが、厚い信任を受けていた大久保利通が暗殺された後、官を退き書の道一筋に生きることを決意した人物だ。

ところで宗安寺には、毎年赤く染まるススキの一群がある。「血染めのススキ」と呼ばれている。
実は、重成の首はススキにくるみ持ち帰られた。そのススキの穂が落ち佐和山城下に根付き、誰と言うでなく「血染めのススキ」と呼んだのだという。明治になっても繁茂していたが、佐和山の麓に鉄道の線路を敷くにあたり、佐和山神社の境内に移されることとなった。佐和山神社が廃社となると、隣地の井伊神社に移されたが、移植で弱ったのか枯死寸前の状態になった。それを首塚がある宗安寺の境内に移したところ、数ヶ月でススキは生彩を取り戻したという。
それにしても何故、移植を繰り返してまでススキを生かしたのだろう。大坂の陣の勝利を誇り、語り告ぐためだろうか……。今もススキは境内の一角で歳月を過ごしている。ススキもまた記念物である。

記念物から戦国時代へと歴史を遡る時、語り継がれる物語がある。しかし、そこには夥しい屍があり血で血を洗う戦いの時代であったことを忘れてはならない。 江戸という平和の時代はその上にある……。