2021年NHK大河ドラマ「青天を衝け」、主人公は「渋沢栄一」。商工会議所の創始者でもある。「企業は利益を上げなければならないと同時に、公益についても考えなければならない。両者は高い次元で両立する」という渋沢の理念は、会議所の活動理念そのものだ。
渋沢は天保11年(1840)2月13日、現在の埼玉県深谷市血洗島(ちあらいじま)の農家に生まれた。家業の畑作、藍玉の製造・販売、養蚕を手伝い、6歳のとき父に学問の手解きを受けた。7歳で本格的に『論語』を学んだのは従兄の尾高惇忠(おだかあつただ)からだった(尾高は富岡製糸場初代場長となる人物)。
嘉永6年(1853)ペリー来航、安政5年(1858)日米修好通商条約締結。尊皇論・攘夷論が世の中を席巻する文久3年(1863)渋沢22歳のとき、惇忠らと攘夷計画を密議していたが、惇忠の弟長七郎の説得により決起寸前で中止することになる。事が露見したわけではなかったが、故郷に残るのは危険と判断し、一橋家の用人平岡円四郎を頼って京都へ下り、元治元年(1864)、平岡の推薦で一橋慶喜に仕えた。翌年、慶喜は征夷大将軍となり、 渋沢は幕府を内側から変えようと幕臣となった。

井伊直弼は、文化12年(1815)10月29日、井伊家11代直中の14男として、彦根で生まれた。当時50歳の直中は、すでに家督を直亮(直弼の兄)に譲り、彦根の槻御殿で隠居生活を送っいた。直弼も、直中や兄の直元・弟の直恭らとともに、槻御殿で幼少期を過ごしていた。天保2年(1831)、父の直中が死去。これを機に、直弼は槻御殿を出て尾末町屋敷に移り住む。この屋敷が後の世に「埋木舎」として知られることにる。
世界遺産登録を目指す彦根城の資産物件および範囲は、天守、太鼓門櫓、天秤櫓、西の丸三重櫓、表御殿跡、馬屋、佐和口多門櫓、玄宮園、槻御殿、藩校弘道館跡、木俣屋敷・脇屋敷長屋・庵原屋敷長屋門など重臣屋敷跡の堀や石垣を含めた中堀より内側の特別史跡内、そして「埋木舎」なのだ。
井伊直弼のイメージは歴史の試験の虫食い問題の解答のような名詞と結びついている。「ペリー来航」、「日米修好通商条約締結」、「尊皇攘夷」、「桜田門外の変」或いは「安政の大獄」……。直弼に「茶人」を思い浮かべる人はその道の人だろう。
『茶湯一会集』は直弼が著した茶書である。茶事について、心構え、準備など全てのプロセスを具体的に述べたもので、現在でも、流派を問わず茶の湯のバイブルとして用いられている。直弼は近代的精神性を重視した茶の湯の先駆者だったのである。

「一期一会」とは、『茶湯一会集』において「茶会における人と人との交友は、たとえ何度同じ人と会を交えようとも、一会ごとに一期(一生)に一度のものと考えるべきである」と直弼が達した茶の極意であり、直弼が自分の流儀を追求するなかで、完成させたものだ。『茶湯一会集』の清書本が完成するのは桜田門外で暗殺される直前、安政4年(1857)8月頃だといわれている。
幕末という激動の時代を、一途に幕府の権力回復のために働き、安政の大獄を断行した大老直弼と、茶の湯の源流を正しながら「一期一会」「独座観念」「余情残心」の境地に達した茶人直弼は別人ではない。

後に直弼が埋木舎と名付ける尾末屋敷に移り住むことになるのだが、この屋敷に茶室はなく、ふとん部屋を改造して四畳半の茶室にしたという。この茶室が「澍露軒(じゅろけん)」である。
直弼は埋木舎で『栂尾美地布三(とがのおみちふみ)』という茶書を執筆している。「栂尾」とは中国から茶を伝えた栂尾高山寺の明恵(みょうえ)上人を指して「茶」を表し、「美地布三」とは「道の文」で、「茶道の文」という意味である。天保13年(1842)以前の執筆と考えられている。ちょうど渋沢が生まれた頃のことである。


参考