佐和山城下町の道路跡で見つかった石積みと胴木

国道8号線の米原バイパスの整備に伴って、整備用地内にある旧佐和山城の城下町跡の発掘調査をしている滋賀県文化財保護協会は、城下町のメインストリートだった「本町筋」の跡が確認されたと発表。本町筋の敷設に関しては、城の石垣を築く際に用いられる胴木(どうき)工法が採用されていたことも判明した。現地説明会などは新型コロナウイルスの感染拡大防止のため行われない。
県文化財保護協会は2018年度から旧佐和山城の発掘調査を実施。2019年度は佐和山山麓にあった武家屋敷と本町筋をつないでいた道路や橋台の跡が見つかった。2020年度は昨年度の続きとして、城下町跡エリアの5,534平方メートルで4月から12月まで発掘調査を行っている。
江戸時代に描かれた「佐和山古絵図」によると、旧内堀と旧外堀の間には南北方向に本町筋が通っていた。本町筋は佐和山城からの大手道とつながっていて、両サイドには町屋があったことから、メインストリートだったと言える。

城郭石垣に採用の胴木工法

今年度の発掘調査では、本町筋が現在の市道下に整備されていたこともわかった。道路を敷設するため粘土に砂利を混ぜた土で固め、側面に石材を積み上げる工法で作られていた。江戸時代以降の水田化によって、本町筋の道路跡のほとんどが壊されているが、西側の一部では2段分の石材が残っていた。
ほかに、石積みの崩落防止のため、土台の役割として丸太を石の下に設ける胴木を設置していたことも確認された。胴木がずれないよう外側に等間隔で杭を打ち込む工法は天正年間(1573年~1592年)の織田信長時代に築かれた城の石垣にも用いられていることから、県文化財保護協会は信長の勢力下にあった段階に道路が敷設された可能性を示唆。最も早い時期として、豊臣秀吉時代に移行する前の丹羽長秀が佐和山城主だった時に整備された可能性もある。
今回の発掘調査の結果について、県文化財課の担当職員は以下の評価をしている。

  • 城下町を区画する道がはっきりとわかる形で発見されたことは県内でも初めての事例で、全国でもまれな貴重な遺構だ。
  • 2010年度の北側での調査で発見されたものと合わせると、道はほぼ現道と同じ位置で踏襲していたことになり、大きな成果を得た。
  • 丸太で根太(ねだ)を敷き、それを杭止めした上で石積みして盛り土で作られているということがわかった。当時の土木技術も垣間見ることができた。
  • 絵図の信ぴょう性も高まり、当時の城下町の構造の一端を解明できた戦国時代の数少ない城下町の遺構として今回の道の発見は意義があり、価値が高い。