はじめに

片桐且元に関して、どのようなイメージをお持ちでしょうか。関ヶ原の合戦の後に豊臣家の存続を図るために徳川家康と交渉するも豊臣家と徳川家の板挟みになり、挙句の果てに豊臣家から見切られてしまう大変気の毒な武将というイメージがあるのではないでしょうか。あるいは、豊臣秀吉が柴田勝家を破った賤ケ岳合戦で活躍した「賤ケ岳七本槍」と呼ばれる秀吉の小姓の1人で武勇に長けた武将というイメージを持たれているでしょうか。
しかし、それら以外で実際に且元がどのような活躍をしたのかについては、余り知られていないと思われます。且元は主君の豊臣秀吉が実施した太閤検地や後をついた秀頼の命で数々の寺社復興を成し遂げるなど、敏腕プロジェクト・マネジャーとして活躍していたのです。今回は、これまでクローズアップされてこなかった敏腕プロジェクト・マネジャーとしての且元の仕事ぶりをSDGsの観点から論じていきます。

SDGsとは?

SDGs(Sustainable Development Goals)とは「持続可能な開発目標」と訳されているもので、第70回国連総会(2015年9月25日に開催)で採択された「我々の世界を変革する:持続可能な開発のための2030アジェンダ(戦略や行動計画という意味)」という文書の中で登場します。具体的には、以下の17の目標があります。

功績1. 検地奉行として年貢徴収の合理化に貢献

 

片桐且元は、豊臣秀吉が実施した太閤検地で検地奉行として摂津、河内、丹波の検地を指揮しています。関ケ原の合戦後において徳川家康が主導した近江一国の検地において、且元は高島・伊香・栗田・滋賀郡の北部地域の検地に関与しています。また、家康との関わりでは、家康が慶長9年(1604)に全国の領主に作成を命じた各国の領地高と年貢を記した徴祖台帳である郷帳と各大名が治める領地の地図である国絵図の作成に且元は貢献しています。且元がどのような貢献を果たしたのかと言うと、複数の領主が一国を支配している場合や一国に中小の大名や寺社領が混在する場合においては調整が必要であり、調整役の国奉行として且元は摂津・和泉・小豆島における郷帳および国絵図を作成する総指揮を取りました。
検地の実施、郷帳や国絵図の作成といった仕事は、各国の生産高とそこから徴収できる租税に関する領国経営において最も重要な情報を提供するものです。それゆえに、これらの仕事を実行する責任者は、信頼がおけて、仕事ができ、当事者間の利害調整ができる者でなければなりません。その点で且元は、主君である秀吉はもちろんのこと家康からもこれらの役割を抜擢されているので、その人柄と仕事ぶりが評価されていたことが分かります。

功績2. 豊臣家の寺社復興事業に尽力する

 

豊臣政権においては、合戦において荒廃し衰退した寺社の復興に力を入れました。慶長2年(1597)に豊臣秀吉が醍醐寺の再興に取りかかったのをはじまりに、後を継いだ秀頼も多くの寺社の造営と再建を実施しています。片桐且元は、寺社復興事業においても奉行として数々の事業に携わりました。且元が関与した主な寺社復興としては、秀頼の命により慶長6年(1601)に近江の木之本の浄信寺、意冨布良(おほふら)神社、竹生島の復興にはじまり、その後、復興する寺社が増えて、慶長12年(1607)の北野天満宮の造営でピークをむかえます。
寺社復興においては、資金や資材はもちろんのこと、様々な技術を有する大工や職人を動員する必要があります。つまり、人、モノ、カネ、情報という経営資源を総動員しないことには成し遂げられない事業です。この事業を陣頭指揮するためには、優れたマネジメント能力を有した人物が求められます。多くの寺社復興に携わった且元は、そのマネジメント手腕を評価されていたということが分かります。ただし、その後、且元は方広寺の復興に携わっていくのですが、このことが豊臣家滅亡のきっかけとなる方広寺鐘銘事件に発展することになるのです。

功績3. 治水事業で経済基盤を整える

  

大阪府狭山市にある狭山池は、飛鳥時代に築造された日本最古のダム式溜池と言われています。築造以来、狭山池は幾度かの改修がなされてきました。片桐且元が狭山池の改修に携わったのは、慶長13年(1608)のことです。この改修は、慶長の改修と呼ばれていて、且元はその責任者を務めました。且元による改修によって、狭山池は地域の水がめとして機能していきました。
この改修では、木製枠工や護岸方法などで業種を超えた多様な技術が導入されました。狭山池は以後幾度かの改修を経て現在に至っておりますが、且元が主導した改修において蓄積された技術は様々な形で伝播していきました。
寺社復興の場合と同様に、狭山池の治水事業においても自前のネットワークを駆使して大工や職人を動員する手腕は、敏腕プロジェクト・マネジャーとしての且元の面目躍如たる働きでしょう。

功績4. 交渉者として平和的解決に尽力するも力及ばず

片桐且元は、豊臣秀頼の補佐役として秀吉亡き後の豊臣政権を支えてきました。豊臣恩顧の武将が真っ二つに分かれて激突した関ヶ原の合戦の後も、且元は秀頼を懸命に支えました。
しかしながら、天下を狙う徳川家康は目障りな豊臣家を排除すべく様々なプレッシャーを豊臣家にかけてきました。豊臣家の存続を望む且元は、交渉者として家康に臨みました。敏腕マネジャーの且元をもってしても、家康はさらに上手をいく交渉者でありました。
方広寺鐘銘事件に代表される家康の無理難題に対してうまく交渉を進めることができない且元に対して、豊臣家は見切りをつけてしまったのです。それは、家康が描いたシナリオだったのです。その後、事は展開してゆき大坂夏の陣で豊臣家は滅びました。平和的解決を望んだ且元でしたが、本意ならぬ結果となってしまいました。


参考文献
  • 黒田基樹(2017)『羽柴家崩壊-茶々と片桐且元の懊悩-』平凡社
  • 曽根勇二(2001)『片桐且元』吉川弘文館
  • 長浜市長浜城歴史博物館 編(2015)『片桐且元-豊臣家の命運を背負った武将-』サンライズ出版
  • 松木 喬(著)・日刊工業新聞社(編集)( 2019『)SDGs経営-“社会課題解決”が企業を成長させる』日刊工業新聞社
  • 村上 芽・渡辺珠子(2019)『SDGs入門』日本経済新聞社