はじめに

石田三成と言えば、関ケ原の戦いにおける敗軍の将として歴史上に名を連ねてきました。敗者ゆえにネガティブな評価が常に付きまとう人物ですが、主君である豊臣秀吉の側近として豊臣政権を支え戦国から泰平の世へ道筋をつけることに尽力しました。また、佐和山城主として北近江を統治した際には、領民を重んじ、公正さを大事にした領国経営を実践しました。このようにしてみると、三成は単なる敗軍の将として語られるだけでは、余りにもったいない魅力的な人物なのです。   主君の秀吉の家臣として三成は、言うべきことは進言し、やるべきことは率先して関与していくという模範的なフォロワーでした。三成は秀吉の模範的なフォロワーだけではなく、佐和山城主として後の時代にも引き継がれていく領国経営のモデルを実現するリーダーシップを発揮しました。
ただ、豊臣政権に積極的に貢献しようという意識が強すぎるがゆえに同僚との軋轢を生み、そこから生じた政権内の分断が最終的に豊臣政権の崩壊につながっていくことになってしまいました。

SDGsとは?

SDGs(Sustainable Development Goals)とは「持続可能な開発目標」と訳されているもので、第70回国連総会(2015年9月25日に開催)で採択された「我々の世界を変革する:持続可能な開発のための2030アジェンダ(戦略や行動計画という意味)」という文書の中で登場します。具体的には、以下の17の目標があります。

功績1. フォロワーシップを発揮して目標達成

 

石田三成と言えば、主君である豊臣秀吉の存在なくして語ることはできないでしょう。三成は秀吉の家臣として、天下統一後の重要政策、たとえば、惣無事令、太閤検地、刀狩令などを推進していきました。これらの諸政策は、戦国時代から平和で安定した社会の基礎を創り上げるものでした。   三成は、秀吉が掲げた重要政策を着実に実行へと移していった優秀な部下でした。言い換えると、秀吉を支える有能なフォロワーだったと言えます。三成のような目標達成に向けてリーダーを積極的に支援してくフォロワーの行動をフォロワーシップと言います。フォロワーシップ論の第一人者のロバート・ケリーによると、リーダーに対して然るべきときには建設的批判ができる「独自の批判的思考」、積極的に参加し自発的で担当業務以上の仕事をする「積極的関与」という2つの行動特性からなるとされています。

図1 フォロワーの類型

出典: Kelley, R. (1992). The Power of Followership. New York: Consultants to Executives and Organizations, Ltd.(牧野 昇 監訳『指導力革命-リーダーシップからフォロワーシップへ』プレジデント社,1993年,99頁,(一部著者改訂)

主君の秀吉に対して三成は、諸政策を熱心に推進していっただけではありませんでした。たとえば、大阪城が大雨で浸水しそうになったときに秀吉の許可なく蔵の米俵を用いて決壊を防ぎました。
このように三成は、平常時においても非常時においても見事なフォロワーシップを発揮して安定した治世を目指す豊臣政権に貢献した模範的なフォロワーだと言えるでしょう。

功績2. 新たな領国統治のモデルを示す

 

石田三成は佐和山城主として北近江の所領を統治しておりましたが、その領国経営能力は高く評価されています。三成の領国経営の内容がよくわかる資料が、十三条と九条の掟書です。十三条の方が三成自身の所領、九条の方が家臣の所領に出されたもので、内容的には大きな違いはありません。掟書は当時のものとしは長文で、統治に関わる規定が綿密に記述されています。
掟書の主な内容としては、村の戸数把握、村人の移動の禁止、村への労働奉仕要請、年貢高の決定に関する規定がありました。また、条文の中には、三成への直訴を認める内容も含まれていました。この掟書からは、農村をマネジメントする仕組み、租税体系の構築という領国経営のエッセンスとなる要素が盛り込まれたものであると理解できます。
三成は統治に関して明確なルールを規定することで、公正な領国経営の体系を整えていきました。体系を整備することに加えて、領主の三成をはじめ現場を監督するマネジャーである代官にいたるまで掟書にあるルール通りに行動することによって領民との信頼関係が構築されます。
領民との信頼関係が構築されることによって、持続的な領国経営も可能となります。その証拠に、三成が築いた領国経営のシステムは江戸時代の領国経営に引き継がれていきました。

功績3. 荒廃した町の復興

  

豊臣秀吉は、戦国時代の戦乱で荒廃した博多の復興に取り組みました。「太閤町割り」と呼ばれた復興は、天正14年(1586)と天正15年(1587)の2度にわたって実施されました。石田三成は、2度目の「太閤町割り」に関わったとされています。前年に復興された息浜と博多浜を統合した新たな町割りを三成は陣頭指揮していたと推定されています。
三成が指揮した2度目の「太閤町割り」に関して重要な役割を果たしたのが、嶋井宗室や神屋宗湛といった地元の有力商人でした。三成は、地元の有力商人と連携して博多の復興を実現していったのです。「太閤町割り」のみならず三成は博多商人と交流をもっており、博多に出向いた際には、嶋井宗室の家を宿所にしていました。

神になれなかった理由

石田三成が神になれなかった理由は、主君の豊臣秀吉との結びつきが強すぎるがゆえに、豊臣政権に対する組織コミットメントが、強すぎたと言えるでしょう。組織コミットメントとは、組織に対して主体的に関わっていき、組織と自分が一体だと感じられることです。組織コミットメントが強すぎると、既存の価値観に縛られて環境の変化に適応できないと指摘されています。
このような状態はオーバーコミットメントと言われ、自分の担当の範囲を超えて介入したり、他人に余計な指示をしたりするといった行動をとるとされています。三成の場合も、オーバーコミットメントの可能性があり、それが豊臣政権内の分断さらには政権崩壊を生むことになったと解釈できます。それゆえに、三成は神になれなかったのではないでしょうか。

参考:組織コミットメントの3次元

マイヤー=アレン(1991)・アレン=マイヤー(1990)
情緒的コミットメント:組織に対して示す感情的・情緒的な志向性や好感度に基づく組織コミットメント。
功利的(継続的)コミットメント:雇用継続によって積み上げてきた副次的利益や、組織を離れることによって失ってしまう回収不能の投資から生まれる損得勘定に基づく組織コミットメント。
規範的コミットメント:1つの組織に忠誠を誓うことが正しい道だと認識させられるさまざまな経験から生まれるある種の倫理観に基づく組織コミットメント。


参考文献
  • Allen, N. J. & Meyer, J.P. (1990). “The measurement and antecedents of affective, continuance, and normative commitment to the organization.” Journal of Occupational Psychology 63: 14-21.
  • 今井林太郎(1961)『石田三成』吉川弘文館
  • 太田浩司(2009)『近江が生んだ知将 石田三成』サンライズ出版
  • 小和田哲男(1997)『石田三成-「知の参謀」の実像-』PHP新書
  • オンライン三成会(2009)『三成伝説-現代に残る石田三成の足跡-』サンライズ出版
  • Kelley, R. (1992) The power of followership. New York: Consultants to Executives and Organizations, Ltd. (牧野 昇 監訳『指導力革命-リーダーシップからフォロワーシップへ』プレジデント社,1993年)
  • 中井俊一郎(2012)『石田三成からの手紙-12通の書状に見るその生き方-』サンライズ出版
  • 開本浩矢[編著](2019)『組織行動論 ベーシック+』中央経済社
  • Meyer, J.P. & Allen, N. J.(1991) “A three-component conceptualization of organizational commitment.” Human Resource Management Review 1: 61-98.
  • 歴史群像シリーズ特別編集(2010)『石田三成-戦国を差配した才知と矜持-復刻版』学研