はじめに
織田信長の領国経営に関するSDGs分析の次に取り上げるのは、信長の娘婿である蒲生氏郷です。岳父の信長から多くの学んだ氏郷は、信長が実践した城下町の商工業を発展させて国力を高めている領国経営のビジネスモデルを展開していきます。氏郷の領国経営の特徴は、出身地の日野商人を赴任先の城下町に呼び寄せ産業を活性化させていったことです。近江商人のビジネスセンスと最新技術を国づくりに取り入れるという氏郷ならではの領国経営のビジネスモデルを確立していきました。
文武両道を地で行く氏郷は、勇猛さと風流さを併せ持つ稀有な人物でした。それゆえに、着実に出世していきました。だが、働き盛りの40歳、志半ばでこの世を去ってしまいました。氏郷の出世が早かった分、組織を急拡大する必要から外様出身者が多くを占めるようになっておりました。氏郷の存命中は取りまとめられていましたが、氏郷の没後は内輪もめが絶えない脆弱な組織となってしまいました。さらに、後継ぎも疫病で若くしてこの世を去ってしまい、お家断絶という残念な結果となってしまいました。
SDGsとは?
SDGs(Sustainable Development Goals)とは「持続可能な開発目標」と訳されているもので、第70回国連総会(2015年9月25日に開催)で採択された「我々の世界を変革する:持続可能な開発のための2030アジェンダ(戦略や行動計画という意味)」という文書の中で登場します。具体的には、以下の17の目標があります。
功績1 岳父 織田信長による領国経営の新ビジネスモデルを踏襲
蒲生氏郷は、父の賢秀が織田信長に属したことによって13歳の時に人質として岐阜に差し出されました。人質に差し出された氏郷ではありましたが、信長はその才能を見込んで武芸の英才教育を施しました。さらに信長は、氏郷に冬姫を娶せました。これは、信長の氏郷に対する並々ならぬ期待の表れと言えるでしょう。
信長の見込んだ通り氏郷は、信長の領国経営のノウハウをしっかり学び、自らの国造りに活かしていきます。氏郷は、故郷の日野を皮切りに伊勢、会津と所領が変わってゆきました。所領が変わるたびに氏郷は、近江の日野城の城下町の整備、伊勢の松坂城、会津の会津若松城の築城および城下町を整備していきます。
氏郷は、岳父の信長が発布した掟書きをベースとした商業の発展を意識したまちづくりのルールを制定しました。氏郷の城下町づくりの特徴の1つとしては、松坂城や会津若松上の城下町では故郷の日野商人を招き入れ、城下町の経済発展の原動力にしていることを挙げることができます。言うなれば、優れたビジネスセンスを有していた近江商人をまちづくりに活かして、経済発展させていこうという近江出身の氏郷ならでは領国経営だと言えるでしょう。
功績2 文人として伝統文化の維持発展に努める
すでに述べたように蒲生氏郷は、織田信長から英才教育を受け、武芸だけではなく、和歌、連歌、漢詩、茶の湯、作庭などに深い造詣を持っていました。猛将でありながらも、文人としても超一流であったのが氏郷だったのです。氏郷は、何事に対しても徹底的に極めないと気が済まない性格だけではなく、実際にやり切ってしまう高い能力を有していたゆえに文武両道たり得る戦国武将だったのでしょう。
文人としての氏郷がもたらした大きな貢献は、千家の再興を果たしたことではないでしょうか。氏郷は、利休七哲と呼ばれる千利休の7人の高弟武将の筆頭に位置づけられ、利休からその才能を高く評価されていました。氏郷は、利休の後妻の連れ子であり娘婿の少庵を会津で庇護し、彼の赦免を徳川家康と共に秀吉に願い出て、秀吉からの許しを得ることができました。秀吉の許しを得た少庵は、利休の孫にあたる宗旦に後を継がせて、千家の再興を果たすことができました。ちなみに、現在の表・裏・武者小路の三千家は、宗旦の3人の子供から始まりました。
氏郷の千家再興への尽力がなければ、表千家も、裏千家も、武者小路千家も無かったのです。そう考えると、今日のような茶道の発展はなかったかもしれません。日本が世界に誇る茶道という伝統文化を存続させたという点で、氏郷は多大なる貢献をしたと言えるでしょう。
功績3 自前のネットワークを活かして地場産業を興す
会津漆器は、福島県会津地方に伝わる伝統工芸品の一つです。会津塗とも呼ばれ、経済産業大臣指定伝統的工芸品に指定されています。会津の漆器が地場産業として基礎を固めたのは、天正18年(1590)、豊臣秀吉の命を受けて会津の領主となった蒲生氏郷が産業として奨励したことがルーツです。氏郷は、出身地の近江日野の人脈を活かして、木地師や塗師を呼び寄せて当時の漆器づくりの先端技術を会津の地にもたらしました。
日野より木地師5人を連れてきて七日町に屋敷を与え、慶山で木地を挽かせました。塗師は、若松、小荒井、喜多方に住まわせました。 そして、塗り大屋敷と称された伝習所に職工を集め、日野椀の製法を伝授したと言われております。このように氏郷は漆器を藩の重要な政策として位置付け保護育成しました。
功績4 スピード出世を果たすも組織化に課題を残す
蒲生氏郷は、今で言うところのスピード出世を絵にかいたような戦国武将でした。14歳の時に元服と初陣。27歳で家督を相続し日野の領主となり、29歳で伊勢松ヶ島城主となって、35歳で奥羽の太守として会津の黒川城主となり、最終的には91万9,320石の大大名となりました。
出世して所領を増やしていくたびに、必要となるのが人材です。氏郷は、様々なルートから人材を採用しなければならず、結果として外様出身の家臣が多くを占めるようになりました。氏郷は、組織の一体感を高めるために諸制度を整備して組織マネジメントを厳格にする一方で、文武両道を実践して成果をあげ続ける氏郷の属人的な魅力で組織を束ねていたのです。しかしながら、戦国時代の戦闘集団としての組織から泰平の世の藩としての領地を自治する組織へ転換する過渡期に、氏郷は働き盛りの40歳でこの世を去ってしまいました。
氏郷の個人的なマネジメント手腕で保たれていた家臣団は、戦闘組織から自治組織への転換どころか、仲間同士の内輪もめが絶えない脆弱な組織になってしまいました。もし、氏郷があと20年いや30年生きていたら、時代の過渡期を乗り切って素晴らしい組織になっていたかもしれません。
- 参考文献
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- 藤田達生(2012)『蒲生氏郷』ミネルヴァ書房
- 今村義孝(2015)『蒲生氏郷』吉川弘文館
- 寺脇丕信(2018)『近江が育んだ九二万石の大名-蒲生飛騨守氏郷とキリスト教-』講談社エディトリアル
- 参考URL
- 会津漆器の歴史 - 会津漆器協同組合