横浜掃部山公園 井伊掃部頭直弼像

江戸時代260年、平和の終わり

世界史に「パクス・ロマーナ」という言葉がある。ローマ帝国が地中海世界を支配した約200年間に見られた、軍事力とローマ法、そして広大な道路網によって支えられた「強制的な平和」を指す概念である。
日本にも、それに匹敵する時代があった。徳川家康が江戸に幕府を開いてから、15代慶喜が大政奉還を行うまでの260余年である。この時代を「パクス・トクガワーナ」と呼ぶ。大規模な戦の少ない平和と、鎖国政策による対外秩序、そして武士という官僚機構と大名統治が支えた高度な統治体制がもたらした太平の世である。これは、彦根城の世界遺産登録においてOUV(顕著な普遍的価値)として示されている「大名統治」の一側面でもある。
「パクス・トクガワーナ」が音を立てて崩れ始めたのは、嘉永6年(1853)、ペリーの黒船が浦賀の沖合に現れた日だった。以来15年、日本は「開国か攘夷か」「尊皇か佐幕か」という問いに翻弄されながら、慶応4年(1868)、明治政府が誕生した。教科書はこれを「明治維新」と呼び、「薩摩・長州の志士たちが封建的な幕府を倒し、近代国家の扉を開いた」と教えてきた。

世界が幕末に注目する理由、そして小栗忠順

近年、欧米やアジアの歴史家・研究者の間で幕末への関心が急速に高まっている。
最大の理由は、19世紀において非西洋国で植民地化を免れ、自立的に近代国家へと変貌したのがほぼ日本だけだという点だ。アジアではインドがイギリスに支配され、中国(清)はアヘン戦争で半植民地化された。「なぜ日本だけが?」という問いは、今も世界史の根本的な謎として研究者を惹きつける。また、フランス革命やロシア革命では近代化が流血と長期の混乱を伴ったが、明治維新は戊辰戦争があったものの比較的短期間で社会構造を丸ごと入れ替えた。この「ソフトランディングの謎」への関心は尽きない。
地政学的な文脈も重なる。米中対立、台湾問題、インド太平洋戦略——現代の東アジア情勢は構造的に幕末と似ており、列強が新興国・地域をどう取り込もうとするか、その原型が幕末にあるという見方が世界の研究者の間で広がっている。
さらに「敗者の視点」への注目がある。明治の新政府が作った「維新の物語」ではなく、幕臣側から見た歴史への問い直しだ。小栗忠順、榎本武揚、河井継之助——「負けた側の有能な人間たち」がなぜ歴史から消されたのかという問いは、歴史記述の権力という現代的なテーマとなっている。
2027年のNHK大河ドラマ『逆賊の幕臣』の主人公は小栗忠順(おぐりただまさ / 1827〜1868)だ。幕府勘定奉行・外国奉行として、横須賀に近代造船所を建設、フランス式軍制を導入し、日本初の株式会社構想を練り、郡県制による近代国家の設計図まで描いた人物である。
万延元年(1860)の遣米使節団に加わった小栗は、ワシントンの海軍造船所で近代文明の圧倒的な現実を目の当たりにする。帰国後、同行した福沢諭吉が「文明開化」の啓蒙へ向かったのとは対照的に、小栗は即座に実装へと動き出した。思想家ではなく、徹底した実務家として日本の近代化に取り組んだのだ。
その仕事の幅と先見性は、明治政府の元勲・大隈重信をして「明治政府の近代化政策のほとんどは小栗の模倣にすぎない」と言わしめたとされ、福沢諭吉も「鞠躬尽瘁の人」(きっきゅうじんすい:心身ともに捧げて全力を尽すこと)と讃えた。日露戦争でロシアのバルチック艦隊を撃破した連合艦隊の旗艦「三笠」は横須賀の造船所で整備され、東郷平八郎は勝利の後、小栗の遺族を呼んで深く礼を述べたといわれている。
しかし小栗自身は、戊辰戦争後に新政府軍に捕らえられ、裁判もなく斬首されてしまうのだ。

直弼公が選んだ男

小栗を抜擢し、中央政治の舞台に押し上げたのは井伊直弼公だった。
安政5年(1858)以降、大老として幕政の主導権を握った直弼公は、家格中心の幕府人事にもかかわらず、30代前半の小栗を目付に抜擢し、遣米使節団の監察役に任じた。「有能な人材を適所に置く」という実力主義の思考を示す人事だ。
今回の大河ドラマ『逆賊の幕臣』で、直弼公がどのように描かれるのかは判らないが、薩長史観が作り上げてきた「圧政者」のイメージではないはずだ。薩長が作った「維新の物語」の中で、直弼公は維新の正義に敵対する者として描かれ続けてきた。しかし今回はそうはいかないだろう。「敗者の側から」幕末を描くこの大河は、その構図そのものを問い直してくれるはずだ。
小栗は、万延元年(1860)、遣米使節団に加わり太平洋を渡る。この使節団には表向きの目的——日米修好通商条約批准書の交換——の裏に、もう一つの隠れた任務があった。「通貨の交換比率の是正交渉」、その特命担当が小栗だった。フィラデルフィアの造幣局では「ノー」を言い続けてアメリカ側を折れさせ、タフ・ネゴシエイターとして日本人の評価を高めた。
小栗が太平洋上にあった3月3日。直弼公は桜田門外の雪の中に斃れた。享年46。自分が選んだ男の活躍を見ることはなかった。
小栗は直弼公が斃れた後も、「土蔵付き売家」の執念で近代化を推進していった。「土蔵付き売家」とは、小栗が横須賀製鉄所建設に際して語ったとされる有名な言葉だ。「家」 = 幕府という政権そのもの。「土蔵」 = 横須賀製鉄所、フランス式軍制、国債制度など、小栗が作ろうとした近代国家の産業・軍事インフラだ。つまり、「政権が滅びても、産業基盤さえ残せば日本は生き残れる」という国家存続への執念だ。日本をめぐり西洋列強が覇権を争うパワーゲームに巻き込まれながら、この2人は静かに、しかし確実に、近代日本の骨格を組み上げていた……。
2027年の『逆賊の幕臣』で、松坂桃李が演じる小栗忠順を通して、「正しいことをした人間が、正しく報われなかった」という物語を、視聴者は知ることになる。
明治11年(1878)、廃城令によって解体される運命にあった彦根城を救ったのは、明治天皇の北陸行幸に随行した参議・大隈重信だった。天皇に保存を奏上し、取り壊しを止めた。その大隈こそ、「明治政府の近代化政策のほとんどは小栗の模倣にすぎない」と語った人物である。井伊の城を救い、小栗忠順の仕事を評価した同じ1人の人間が、2つの「徳川の遺産」を後世に渡した。歴史の皮肉は、時に深く、美しい。

彦根城の世界遺産登録と第3の開国

歴史研究者の大石学氏は、井伊家には3つの「開国」があると指摘する(『井伊家14代と直虎』彦根商工会議所編)。江戸初期に、徳川家康から「開国の元勲」と絶讃されたのは井伊直政公だった。260年余に及ぶ江戸時代の「平和」と「文明化」は、まさに井伊直政によって切り開かれたのだ。直政の武功を中心とする活動は、家康の強い信頼を勝ち取り、彦根藩35万石、譜代筆頭という地位を獲得・維持した。そして、幕末、第13代直弼公は、世に知られる「第2の開国」を断行した。これは、国内的には、大規模かつ厳しい政治的弾圧(安政の大獄)をともなうものであったが、対外的には、軍事的衝突、戦争を避け、平和裡に展開された「外交」であった。江戸時代は、井伊直政の「第1の開国」によって幕を開け、井伊直弼の「第2の開国」によって幕を閉じた。
さて、21世紀の「グローバリズム」のなかで、あらたな国家、社会のあり方が問われている。世界は、今後地球規模での「平和」と「文明化」を達成しなくてはならない。世界各地の紛争、テロ、貧困、流行病などのニュースに接するとき、世界に繫がる日本発の「第3の開国」の必要性が強く認識される。
直政公の「開国」から直弼公の「開国」まで、豊臣家滅亡の大坂の陣を除いて、日本社会は戦争(内戦)のない「平和」な時代だった。彦根城はこの間まったく戦火を経験せず、「平和の城」=「行政の象徴」として存在し続けた。
長い「平和」の時代を通じて、彦根が培った文化・芸術・学問は高い水準へと到達した。「王都」京都と隣接するという地理的環境とも相まって、彦根はやがて京都に代わる「副王都」の役割を期待されるまでになった。幕末動乱のさなか「彦根遷都論」が密かに語られたのは、その文化力の証左に他ならない。
日本史上、2度の「開国」を主導し、「平和」のもとで文化・文明・教育を発展させ、「副王都」にまで成長した彦根の役割は、決して小さくない。井伊家とともに歩んできたこの地が、「第3の開国」にいかに寄与するのか。いま、彦根市民の視点と感覚が問われている。

世界が注目するホットスポット

石油をめぐるパワーゲーム、関税と経済覇権の争い……、21世紀の世界は、力と利益の論理に支配されている。幕末に列強が日本を取り囲んだ構図と、本質は変わらない。では、彦根は何を持って「第3の開国」の使命を果たすのか。
武力ではない。経済力でもない。260年の「平和」の中で熟成させた文化そのものだ。そしてその文化の核心に、「茶の湯」がある。
茶の湯は、単なる作法ではない。直弼公は、多忙な日々の中で茶事を実践し、推敲に推敲を重ねた。その集大成が『茶湯一会集』である。
現代の「おもてなし」の現場で広く使われる「一期一会」の4文字は、直弼公が長年の実践と思索の末に至った境地である。序文の「一期一会」から最終章の「独座観念」へ。茶道研究者の筒井紘一氏は、この2つの思想を「利休以来、幾度も利休回帰を繰り返しながら成熟してきた江戸時代の茶道が最後に行きついた」境地と評している。直弼公は、近代的精神性を重視した茶の湯の先駆者だった。
2027年から2028年へ……。
第3の開国は1冊の茶論書『茶湯一会集』から始まる。