「埋木舎」と呼ばれる建物は、宝暦9年(1759)に藩の公館として建築されたものだ。この一画は尾末町と呼ばれ、100石前後の中級藩士の屋敷が並ぶ武家町だった。当時、佐和口多聞櫓を過ぎた内曲輪の通りには上級藩士の屋敷があり、江戸中期に庶子屋敷として利用されていた三浦与右衛門家の屋敷地もここにあった。埋木舎は三浦家屋敷に匹敵する規模であった(三浦家は2500石である)。

「井伊家の家風では、嫡子以外の部屋住の庶子は他家を継ぐか家臣に養われるのが例であり、他家へも行かず、家臣にも列しない庶子は、わずかな宛行扶持(あてがいぶち)300俵で生活し、中級藩士以下の住宅に等しいささやかな建物……」と、直弼の埋木舎時代は語られてきたが、尾末屋敷での生活は、燃料費や屋敷の維持管理費など必要不可欠な経費は藩の支出から賄われ、屋敷の規模や附け役人の人数から上級藩士の暮らしぶりであったと想像することができる。
実は直弼自身が「埋木舎」と呼んでいたのは、天保2年(1831) 、父直中が死去し、弟直恭とともに尾末町屋敷に移り住んでから、4〜5年の間だった。
天保5年(1834)、直弼は弟直恭(なおやす)と共に他の大名家への養子候補として江戸に滞在したことがあり、そのとき与えられた仮住まいにも「埋木舎」と名を付けている。

直弼の養子縁組は成らず、彦根に戻ってから2年後、天保7年(1836)12月3日に直弼が著した和歌集「詠尼拘廬陀百首(えいにくろだひゃくしゅ)」の序文には、「己か舎を柳和舎とミつから名つけて」と記し、庭前に植えた柳にちなんで「柳和舎(やぎわのや)」と屋敷を名付けたという。かつて、「望み願ふ事もあらず、たゞうもれ木の籠り居りて、なすべき業をなさましと、おもひて設けし名にこそ」と名付けた「埋木舎」を、「柳和舎」と改めたのである。そして、天保13年(1842)7月中旬、直弼が初めて長野義言に送った書状では「和」を「王」にかえ、「柳王舎(やぎわのや)」と署名する。ありのままを受け止める静的な自然体でありたいという願う「柳和舎」から、それでいて更に強い心に秘めた意思を持つ「柳王舎」へ、したたかな人生観の変化が読み取れるという。
また、天保6年(1835)10月、「神心流居相表之巻」に次のように表している。

「柳を見るべし、風にも折れず、雪にも折れることなく、万代朽ちずして翠ますます栄をなす。予、軒に柳を植えてこれを観るに、当門の居相の境地、ただこの一樹にあり。」

柳は強風にあおられても逆らわずしなやかになびくが、根幹は微動だにせず、風がおさまれば静かに枝垂れる。世の流れに逆らわず、心根だけはしっかり保ち続けるという、禅や諸芸の修養に裏打ちされた、肩の力を抜き、それでいて心に秘めた強い意志を示している。

直弼の思考形成、歴史認識、秩序感が培われたのは、埋木舎より柳王舎の時代の方がずっと長い。直弼の雅号は「柳王舎主人」「柳王」「柳王主」「柳がもと」「柳があるじ」など、柳への思い入れは強い。直弼のアイデンティティは 「埋木」ではなく「柳」にあるにも関わらず、今現在、尾末町屋敷を「埋木舎」と呼ぶのは何故か!?ミステリーである。
「埋木舎」ではなく「柳和舎」や「柳王舎」であったならば、井伊直弼のイメージも随分と違ったように思えるのだ。


参考