「彦根城下町朝鮮通信使宿割図」(野田さん提供)

江戸時代に朝鮮通信使の一行を彦根の城下町で受け入れていたことは有名な話だが、詳しい宿割がわかる絵図が彦根史談会の新刊本「彦根郷土史研究 54号」に掲載された。
絵図の名称は「彦根城下町朝鮮通信使宿割図」。元彦根城博物館学芸員で立命館大学非常勤講師の野田浩子さんの著書「朝鮮通信使と彦根 記録に残る井伊家のおもてなし」を読んだ広島県呉市の絵図の所有者から連絡を受けた野田さんが調査。その結果、宝暦14年(1764年)に来日した朝鮮通信使の使節団と随行した対馬藩士を受け入れた彦根の城下町の宿割を記していた。
朝鮮通信使は江戸時代に朝鮮から日本へ12回派遣され、そのうち10回が江戸へ向かい、彦根には往路、復路とも一泊ずつしている。宝暦14年はその11回目で、十代将軍・徳川家治の将軍就任にあたり、朝鮮国王の国書を持参する目的で派遣。使節団約370人と随行した対馬藩の一行約1,000人が江戸へ向かったとされる。

城下町の宿割 新たに判明 「陸路随一のおもてなし」も

彦根での朝鮮通信使ら一行の宿は宗安寺を中心に主に寺院を利用していたことはわかっているが、新たに確認された今回の絵図は現在の中央町、本町、立花町の町屋も宿として活用されていたことがわかる内容。「朝鮮人」「通詞(つうじ(通訳者))」など向けの寺院9軒と町屋11軒、「対馬藩一行」向けの宿の町屋136軒が色分けされている。
対馬藩の記録によると、随行者を68軒に宿泊させるリストを作成したが、彦根藩はその2倍の町屋を宿泊所として用意していたという。朝鮮通信使の日記にも彦根の宿の設備や調度が充実していたことから「陸路中の第一」と高く評価する記述がある。これらのことから「井伊家は譜代大名筆頭という立場にふさわしい応接を心がけ、対馬藩にもおもてなしの心で宿泊所を用意した」ことが読み取れるという。
また、これまでの絵図では伝馬町(中央町)や下魚屋町(城町1)などの町人名しか確認できなかったが、今回の絵図により彦根の城下町中心部の町人名や町割も新たに判明した。
「彦根郷土史研究 54号」はA5判、53ページ。彦根市立図書館で閲覧できるほか、1,000円で購入もできる。問い合わせは彦根史談会の木村正彦会長 ☎ 0749-22-3056。