『茶湯一会集』は井伊直弼が著した茶書である。茶事について、心構え、準備など全てのプロセスを具体的に述べたもので、現在でも流派を問わず茶の湯のバイブルとして用いられている。
『茶湯一会集』に書かれた「一期一会」とは、「茶会における人と人との交友は、たとえ何度同じ人と会を交えようとも、一会ごとに一期(一生)に一度のものと考えるべきである」と直弼が達した茶の極意であり、自分の流儀を追究するなかで、完成させたものだ。『茶湯一会集』の清書本が完成するのは桜田門外で暗殺される直前、安政4年(1857)8月頃といわれている。

澍露軒(じゅろけん):直弼が埋木につくった茶室。澍露とは「甘露の法雨を澍(そそぎ)て煩悩の焔を滅除す」という法華経からとったといわれる。

直弼と茶の湯との出会いは何時、どのようなものであったのかは定かではない。「侘び寂び」を主とした茶の湯が盛んになる以前から、公家や武家の間では、室町時代以来の伝統と格式を受け継ぐ「書院の茶の湯」が営まれており、江戸時代には大名家の式正(しきしょう)の茶として必須の教養であった。「書院の茶の湯」に用いられた「唐物」道具は、大名家には武家の格式にふさわしいものが集められた。譜代大名筆頭の家柄を誇る井伊家においても、数々の「唐物」道具が伝わっている。
例えば、彦根藩2代藩主井伊直孝は、元和元年(1615)12月、徳川秀忠から茶入「宮王肩衝(みやおうのかたつき)」を拝領している。「宮王肩衝」茶入は、中国・宋時代のもので、室町幕府8代将軍足利義政の旧蔵にあったとされる大名物(おおめいぶつ)である。伝世の間に宮王大夫(みやおうたゆう)の所持を経たことから、「宮王」の名がついた。その後、織田信長・豊臣秀吉に仕え名物茶器の収集を行った松井友閑から秀吉に献上され、大坂城落城の際に徳川家康の手に渡り、戦功のめざましかった井伊家2代直孝が拝領した。「肩衝」とは肩の部分が張った形であることをいう。
彦根城博物館には「宮王肩衝」茶入の他、4代直興が綱吉より直に拝領した香炉、小堀遠州のお墨付きを得て購入した茶壺、唐物「鶴首」茶入、唐物で胡銅(こどう)や青磁の禾目天目(のぎめてんもく)などの大名家の格式をもった茶道具が伝存している。
井伊家では茶の湯が儀礼化し、藩主や家臣たちの間で日常的に行われていたことが知られ、直弼は譜代大名筆頭の家柄で茶の湯に親しみ、学ぶ立場であったことが容易に想像できる。
直弼は埋木舎で『栂尾美地布三(とがのおみちふみ)』という茶書を執筆し自身の茶の湯観を記した。茶の湯はやさしいもので、茶を点てる作法も定まったものではなく、器などもあるものにまかせ、あながち珍しいものを好むものではないとしている。これは、当時流行していた茶の湯の現状批判である。また、精神修養として茶の湯を行えば武士にも有益であると述べている。そして、あるがままにもてなす主客の交わりを重視し、流派にとらわれない茶の湯を考えていたようだ。

茶湯三言四句 井伊直弼筆(彦根城博物館蔵)「茶非茶、非非茶、只茶耳、是名茶」は、ただひたすらに「茶之一道」を求める直弼の茶の湯観を示している。虚構の世界としての茶の湯を追求することにより、おのずから「実」に入ることが「茶の一道」であるという、禅的な茶道観を示している。

弘化元年(1844)、茶の湯説話集『閑夜茶話』の執筆をはじめ、江戸に出る前年の弘化2年(1845)10月、『入門記』を著し、石州流の源流を正して独自の一派を為すことを自他ともに示した。また、その間「茶道と政道」との関係を述べた茶論書も著している。直弼自筆原本には表題はなく、『井伊大老茶道談』に「茶道の政道の助となるべきを論へる文」として収録されている。『栂尾美地布三』において「諸業の助」として茶の湯は武士にも有益だと消極的に武士の茶の湯を肯定していたが、「茶道と政道」を著すに至り、武士が「正道の喫茶」を知ることは「天下大事」であると、一歩進んで積極的に武士の茶の湯を肯定した。
『入門記』の冒頭には次のように記されている。

「道の之(これ)行われざる也、我之を知る矣、知者は之に過ぐ、愚者は及ばず」 

「道」は「茶道」のこと。「道」が行われていないことを「我これを知る」という。「正道の喫茶」が行われていないことを知っているというのだ。そして、知識人は理念に捉われ過ぎ、愚者は理念そのものを理解しないと、現状を痛烈に批判するとともに嘆くのである。
その少し前、弘化2年(1845)3月、直弼は「三言四句茶則」を著し、「茶非茶、非非茶、只茶耳、是名茶」と有名な言葉を遺している。
まず「茶は茶に非ず(現世の茶を否定)」とし、次に「茶に非ざるに非ず」(しかしそれも茶でないとは言えない)、「ただ茶のみ」(全ての思惟を超えて茶の道がある)、「是を茶と名づける(茶であって茶でない境地が茶である)」と新しい境地を示している。それは、大名茶道である石州流を更に遡った、千利休がつくりあげた茶であった。
この茶の湯観は、「虚より実に入る」という、流祖宗関(片桐貞昌)の茶の湯観を踏まえたものと考えられている。まずは、虚構の世界としての茶の湯を追求することにより、おのずから実生活での「実」へ入ることを「茶の一道」としたのである。
「茶非茶、非非茶、只茶耳、是名茶」、『茶』の文字を『我』或いは『自分』に置き換えてみると、「虚」より「実」に至るイメージと、その崇高な精神の高みに至る困難さを理解できるのではないだろうか。もはやその茶は形而上学の実践であるように思える。

直弼は茶の道を究めるという夢があった。物事の道理、根本的な原理を遡り、徹底的に研究する人物であった。ひとつことを始めると、自分が納得して究めるまで諦めない。こだわり、頑固でもある。江戸に出た直弼は、藩主として、大老として重責を果たしながら、推敲に推敲を重ね生み出されたのが茶の湯の精神を強く強調する『茶湯一会集』(安政4年完成)なのである。安政7年(1860)の正月17日と18日、直弼の息子の愛麿など家族や女中など気心の知れたものと茶会をしている。これが最後の茶会であった。
幕末という激動の時代を、一途に幕府の権力回復のために働き、安政の大獄を断行した大老直弼と、茶の湯の源流を正しながら「一期一会」「独座観念」「余情残心」の境地に達した茶人直弼は別人ではない。

「柳を見るべし、風にも折れず、雪にも折れることなく、万代朽ちずして翠ますます栄をなす。予、軒に柳を植えてこれを観るに、当門の居相の境地、ただこの一樹にあり」。

天保6年(1835)10月、「神心流居相表之巻」に書き残している。
直弼は、「居合」を「居相」と記し、実際の武術としてではなく、居相う自分の気持ち、心を突き詰めていく。
柳の自然でシンプルな在りように、直弼は心を映した。肩の力を抜き、禅に裏打ちされた心に秘めた強い意志は全て埋木舎で培われたものだった。


参考
  • 「井伊直弼」母利美和著
  • 彦根商工会議所月報(2009年)
  • 彦根城博物館