彦根城は桜の名所ではなかった!!

彦根城でもうすぐ桜の花が咲き誇る。日本の桜の名所のほとんどは、紀元二千六百年記念や戦後復興の町づくりとして植えられたものだといわれている。日本書紀の紀年に基づき、初代天皇(神武天皇)が即位した紀元前660年を皇紀元年と定め、昭和15(1940)が紀元二千六百年にあたることから、国威高揚のため各地で式典を行い、国を挙げて祝ったのである。

昭和3年「近江鉄道沿線の栞」部分(個人蔵)

写真の地図は、昭和3年(1928)湖東平野を走る近江鉄道の全線電化を記念してつくられた沿線案内「近江鉄道沿線の栞」の一部分である。沿線案内の役目は、旅する人に、その土地で訪れてほしい名所旧跡や、味わっておく、或いはお土産にするとよいものを紹介することにある。

栞には、近江鉄道の彦根・米原間は未開通で「電車未設線」と記され、鳥居本駅は存在しない。多賀・高宮間には土田という駅があり、多賀大社は一際大きく目立つように描かれ、敏満寺池も名所だった。松原には内湖が描かれ、佐和山神社、井伊神社、多景島の誓御柱も丁寧に描かれている。鮎名物、鮒名物、胡宮神社の山は松茸が名産だったようだ。霊仙でスキーができ、桜の名所は「宇曽川堤の桜」のみ。彦根城には何も記されていない。

吉田繁次郎と桜

実は、彦根城の桜は、吉田繁次郎が昭和9年(1934)に植え始めたものだ。紀元二千六百年記念の桜よりも更に古い。彦根がまだ彦根町だったころ、吉田繁次郎は町会議員だった。「古い城下町の味をたいせつにし、大きく伸びる町にするには、観光の町として発展させていくのが、いちばんよいのではないだろうか。そうだ、皇太子の誕生の機会に、彦根城一帯に桜の木を植えて、桜の彦根城にしよう。」(『彦根の先覚』)と、繁次郎は彦根の将来について、夢を持った。繁次郎は町の家を一軒一軒歩き、桜の苗木千本を買うための寄付金(当時の金額で1200円)を2か月で集め、ソメイヨシノの苗木、千本を買い入れ植え始めた。桜の苗木は、植えればそのまますくすくと育ってくれるものではなく、繁次郎の桜とともに生きる人生が始まる。天守近く、内堀の土手、金亀公園、外堀の道ばた、旧港湾沿いや芹川の土手にも苗木を植えたという。

そして、彦根町は昭和12年(1937)2月11日に彦根市となり、「桜の彦根城」を観光の名所として全国に宣伝するようになる。昭和28年(1953)、永年の努力が認められ彦根観光協会から繁次郎は表彰を受ける。桜を植えることを思い立ってからちょうど20年目のことである。
第二次世界大戦中、金亀公園に植えた桜は切り倒され、一帯はさつまいも畑になり、昭和34年(1959)の伊勢湾台風などで繁次郎の育てた桜の木は半分の500本余りに減ってしまったが、今も桜は咲き誇っている。

桜に学ぶべきは、「夢を実現する」そして「名所・名物は生み出すことができる」ということである。
彦根商工会議所は、日本一の10万都市を目指し、人口減少、都市間格差などの直面する重要課題に取り組んでいる。彦根城の世界遺産登録は経済活性化の切り札であり、彦根の魅力を世界中に発信するチャンスであることは間違いない。

世界遺産は「顕著な普遍的価値のある世界の宝物を未来に伝える」ためのものであり、観光地化や観光客誘致のためのものではない。しかし、登録されることにより、一気にメジャーな観光地となるのも事実である。
「世界遺産としての価値」と「観光資源としての価値」という相反した二つの価値をいかに世界遺産の理念に昇華し、持続可能な観光計画を創造するかが問われている。
想像は知識を超えることはできない。未来のビジョンを描くとき、知識がより豊かなものにしてくれるはずだ。まず、学ばなければならない。