城下町が完成して400年

大坂の陣後、彦根藩第2代井伊直孝の治政が始まる。彦根城築城工事が再開されたのは元和元年(1615)頃であった。大手口を正面とした構造を維持し、佐和口側に新たに表御門口を設け、表御殿の造営など重要な改造が行われている。慶長期の彦根城は、大手口から京橋口、本町へと続く、城郭南側の西国への防衛を意識した構造だったが、佐和口側に藩庁を置くことで、江戸を意識した構造に改められた。そして、慶長期には第一郭に配置されていた一部の重臣屋敷が、すべて第二郭に移された。山崎曲輪(土佐郭)の木俣土佐(守勝)の屋敷は、第二郭の佐和口御門脇の椋原壱岐(正長)の跡屋敷へ移された。そして大手側の腰曲輪に居を構えていた鈴木主馬(重辰)が安中へ分知された直継に付き従ったため、その屋敷の跡地には彦根城の常備米として幕府から預かり置く城付米二万石を保管するための御城米(御用米)蔵17棟が建てられた。これによって、第一郭には藩の公的施設のみが配置され、第二郭が重臣の居住地域となった。 元和期の工事期間は定かではない。「井伊年譜」では「元和八年戌年、御城廻り石垣・高塀・諸門過半出来す」と記され、藩庁表御殿もこの頃までに完成したと考えられている。城郭が軍事拠点としてだけでなく政治的統治拠点としての役割を持つようになる元和8年(1622)は、2024年彦根城世界遺産登録を目指す彦根市にとって、重要な年号であることは間違いない。近世城下町として現代につながる景観がこのとき生まれた。来年、2022年は彦根の城下町が完成して400年となる。

龍潭寺山門

井伊谷(いいのや)から佐和山麓へ

さて城下町の整備が進む元和3年(1617)、彦根藩第2代直孝が遠江国井伊谷(現:静岡県引佐郡引佐町)の龍潭寺五世の昊天崇建禅師(南渓禅師の弟子)を招き創建したのが、佐和山の麓の龍潭寺である。
慶長5年(1600)関ヶ原の合戦後、井伊直政が佐和山城主となる。直政は、関ヶ原で島津軍の必死戦法「捨て奸(すてがまり)」の襲撃を受け被弾。死期を悟った直政は、彦根にも井伊谷出身の家臣が大勢いることから、井伊谷龍潭寺の昊天禅師に、彦根にもう一つの龍潭寺建立を遺言する。慶長7年(1602)2月1日、直政公は42歳でこの世を去る。遺骨は分骨され、昊天禅師の手で井伊谷の龍潭寺に納められた。
直政から直孝の時代にかけて、彦根では真言宗七ヵ寺、禅宗六ヵ寺、浄土宗四ヵ寺、日蓮宗一ヵ寺、真宗十九ヵ寺の、およそ四十ヵ寺が城下町建設と並行して建立されている。山号を弘徳山と称する龍潭寺は臨済宗妙心寺派で、清凉寺とともに彦根藩を象徴する寺院の一つなのである。

だるままつり:2021年4月1日恒例の「だるままつり」。だるまが整然と並び、入魂式・大般若経六百巻の転読が行われる。この祭りは江戸時代元禄年間、庶民が達磨大師の御利益(慈悲と救済)にあやかろうとお手製のだるまをそれぞれ持ち寄ったのが始まりという。寺でだるまを用意するようになったのは戦後になってからである。

日本初の「園頭科」

龍潭寺の工事は慶長7年(1602)に着手され、方丈が落慶するのは元和3年(1617)のことである。翌年から方丈南庭と書院東庭の作庭が始まった。現在公開されている庭は、「方丈南庭」「書院東庭」(彦根市指定文化財)「書院北庭」の3つである。
「方丈南庭」は昊天禅師の作庭で、「ふだらくの庭」とも呼ばれ、白砂に48個の石を配した石庭枯山水の名庭。「書院東庭」は寺伝では茶人・造園家として有名な小堀遠州の作庭で、「蓬莱(ほうらい)池泉庭」の別名をもつ。書院からの鑑賞を主眼にした池泉観賞式の庭園である。彦根藩井伊家13代直弼はこの庭の池を愛で、「世の間に/すむとにこるの/あともなく/これ池水の/いさきよきかな」と自作和歌集『柳廼四附(下)』に「龍潭寺の池をよめる歌額にかきてつかわす」としてこの庭を称えている。
江戸時代、臨済宗妙心寺派の龍潭寺は、禅宗を学ぶ道場として栄え、龍潭寺には大学寮があり日本初となる「園頭科」がおかれ、最盛期には200人を越える僧が修行していたという。庭を観て覚り、或いは庭を造り草木の世話をするなかで真理を体得する。「書院北庭」は造園を学ぶ僧たちが修行するための庭である。
ちなみに、井伊谷龍潭寺の「北庭」も小堀遠州の作庭と伝わっている。

方丈南庭(ふだらくの庭):一面に敷き詰められた白砂と、その上に配された大小四十八個の石などによって、観音菩薩のいる補陀洛山一帯が表現されている。白砂は大海、杉垣は水平線、中央のひときわ大きな島が補陀洛山で中央の立石は観音の立ち姿を表しているという。

書院東庭(彦根市指定文化財):佐和山を背景に、山裾の斜面に造営された庭園で彦根市指定文化財となっている。築山は山麓を利用して高く築かれ、裾を巡るように池を設けている。庭園の南隅には石組で高い滝口が組まれている。池の左側に配された岩島が亀を表し、右の木が鶴を表現した鶴亀蓬莱庭園と称される。佐和山を取り込み、書院からの鑑賞を主眼に造営された池泉観賞式の雄大な庭園である。

書院北庭:造園を学ぶ僧たちが修行するための庭であった。

ところで禅宗寺院の方丈は、一般的には室中、礼の間、檀那の間などと呼ばれるそれぞれの部屋に役割を持たせた6室で構成された本堂をいう。龍潭寺の方丈は10室で構成されている。中央に「仏壇の間」、その前に「室中」、そして、その東西に「上間」「下間」が二室ずつ、更に、その外側に「入側」が2室ずつ付属している。この方丈が元和3年の創建といわれている。
次回、龍潭寺、森川許六の「方丈襖絵」(彦根市指定文化財)


参考
  • 『新修彦根市史第二巻』
  • 『井伊家十四代と直虎』