「オオトックリイチゴ」はバラ科キイチゴ属の一種で彦根城の固有種である。平成になって天秤櫓前に株分けされたものが観光客に公開されている。

自生の「ナワシロイチゴ」と中国・朝鮮半島原産の「トックリイチゴ」が自然交配して生まれた雑種であると考えられています。6月に開花し紅紫色の5枚の小さな花弁をつけます。そして7月になると淡紅色に熟した果実が実ります。

日本の植物学の父である牧野富太郎が明治27年に発見。その後、イチョウの精子発見者として世界的に知られる平瀬作五郎が牧野の依頼で標本を製作し、共同で学会誌に発表しました。学名には牧野と平瀬の名が記されています。

鐘の丸売店横に大きな看板が立っているが、オオトックリイチゴの存在を知らない人は多いのではないだろうか……。

牧野富太郎

牧野は文久2年(1862)土佐に生まれた。94年の生涯において収集した標本は約40万。命名は2,500種以上(新種1,000、新変種1,500)、自らの新種発見も600種余りといわれる。日本植物分類学の基礎を築いた人物である。
明治14年(1881)に初めて伊吹山を訪れ、その後もたびたび植物探査と採取を行っている。伊吹山もまた固有種の宝庫である。牧野はこの山に魅せられたのだろう。明治21年(1888)26歳のとき、旧彦根藩士小澤一政の次女小澤壽衛(すえ)と結婚している。牧野が彦根城を訪れたのも、そんな縁があったのかもしれない。明治 27年(1894) 11 月、伊吹山の植物採集の途次に彦根城に立ち寄った際、表御殿跡(現在の彦根城博物館)で発見したのである。

平瀬作五郎

平瀬は、安政3年(1856)福井藩士の長男として生まれた(1925年没)。明治29年(1896)に発表した論文「いてふノ精虫に就テ」が翌年ドイツ語で紹介され、世界の植物学者を驚かせた。日本の開国後、欧米の近代科学を学んだ成果であり、植物学上の世界的な大発見だったのだ。同年9月、平瀬は帝国大学を退職、翌年彦根中学校の教諭心得となり、明治37年(1904)まで勤務している。

学名

牧野が彦根城で発見したときは茎葉(けいよう)だけだったため、明治34年(1901)と35年(1902)に平瀬作五郎に標本を依頼。平瀬はオオトックリイチゴの果実と花のついた標本を作成し牧野に送った。自身で作成した標本と平瀬から送られた標本を基準として牧野は新種と判断し、学名に平瀬の名を入れて Rubus Hiraseanus Makino と定め、明治35年に『植物学雑誌』第16巻に発表した。日本の偉大な2人植物学者の名を戴くオオトックリイチゴは、彦根城のOne and Only、素晴らしい宝物なのである。

平瀬に標本を依頼するまでに何故7年の空白が生じたのかは、興味深い謎だ。


参考
  • 彦根市指定文化財:解説シート
  • 彦根東高百二十年史