きせない祭りの伝承

「きせない行列」ともいわれるこの祭りは、上河原町・袋町・橋本町・登り町で受け継がれていたが、昭和初期に途絶えてしまったという。
「きせない」とは聞き慣れない言葉である。江戸幕府の奢侈禁止令(しゃしきんしれい:贅沢(奢侈)を禁止して倹約を推奨・強制するための法令)と井伊家が質素倹約を旨としたから、「着せない」だろうといわれてきた。藩時代、町屋では8月1日、武家方では8月15日に「きせない盆唄」を唄いながら少女たちが町を歩いたという。
昭和30年代に彦根観光協会が大雲寺の小川繁樹住職に依頼し、「きせない行列」を「るんびにー保育園」で復活させたが現在は行われていない。
るんびにー保育園の「きせない行列」は、母親に伴われた浴衣姿の園児たちが「きせない盆唄」を歌いながら保育園から銀座商店街を抜け、中央通りから本町商店街に入り、旧市民病院(現 京橋口駐車場)裏を通り過ぎたところにある地福院にお参りし、宗安寺でお駄賃のお菓子をもらって解散するというものだった。

高橋敬吉が記した「きせない盆唄」

・天の七夕ばたついて こけていーんで おーかさんに叱られた ノーヤッサイ
 いんでおかさんに ヨーホイ 叱られた ノーヤッサイ キセナイ キセナイ
・盆の十六日お精霊様よ 蝉がお経よむ 弥陀如来 ノーヤッサイ
 蝉がお経読む ヨーホイ 弥陀如来ノーヤッサイ キセナイキセナイ
・長い竿竹江戸までとどく 江戸のかち梅かち落す ノーヤッサイ
 江戸のかち梅 ヨーホイ かち落す ノーヤッサイ キセナイキセナイ
・天の星様数えて見れば 九千九ツ八つ七ツ ノーヤッサイ
 九せんここのつ八ツ七つ ヨーホイ 八つ七つ ノーヤッサイ キセナイキセナイ
・よんべ寺から茄子をもろた しかも精霊の長茄子 ノーヤッサイ
 しかも精霊 ヨーホイ 長茄子 ノーヤッサイ キセナイキセナイ

※『彦根藩士族の歳時記 高橋敬吉』より。実際は16番まで記されている。

「きせない」は「鬼債ない」

彦根商工会議所は2007年「国宝・彦根城築城400年祭」において、「彦根まちなか博物館」を3つの会場で展開した。そのひとつ「高橋狗佛 collection」展は、彦根市立図書館に寄贈され、郷土玩具の「幻のコレクション」といわれていた狗佛のコレクション約3,000点を精査整理し展示したものだ。狗佛(くぶつ)は高橋敬吉の雅号である。
敬吉は大正4年(1915)4月10日、井伊家当主直忠の懇望により当時7歳であった直愛・直弘の双子の兄弟の家庭教師兼訓育係となった人物である。展示に合わせ『彦根藩士族の歳時記 高橋敬吉』(藤野滋編 サンライズ出版)が出版された。明治10年〜20年代の彦根の城下町の風俗習慣が記録されている。そこには「鬼債(きせ)ない」というタイトルで次のように記されている。

一年二期の総決算である盆の掛取りもすみ、中元の贈答も了えた町家では、八月の一日と二日を盆として休み(中略)此の日の暮れ方になると、組邸や町の娘子(じょうし)はサッと一風呂浴び、髪をきれいに結い、ビラビラと光る花簪を挿し、コッテリと白粉を白壁の様に塗り、首筋に三本の白い足を描き、絽や縮緬のきれいな着物を着飾り、錦襴の帯をたてこに結び、赤い縮緬の兵子帯(腰紐)をダラリと下げ、鈴入りの桐の朱塗に蒔絵のしたコボコボ下駄を穿き、五六歳から十四五歳位のものが年の順、背丈の順に並び、互いに手を繋ぎ合って、きせないきせない、の唄を合唱し乍ら京都の舞妓の様な風で町を練って歩く。十五六歳からの年上の娘も出来る丈の盛装して、黒骨紅金地の扇子をかざし練り歩く。(中略)
この、きせないきせない、の唄と行列は昔、井伊家御盛んの頃、太平の御代に何代目かの殿様の御発案で、唄も殿様のお作りになったのもあるとか。町の女にお花見奨励されたと一対で、太平の御代の夏気分の横溢した見物の一つであった。(後略)

※横溢(おういつ)あふれるほど盛んなこと。

情け容赦なく借金を取り立てるさまを鬼にたとえて「債鬼(さいき)」という。盆と暮れの取り立てが終わり、もう暮れまでは「鬼債ない」と解放されたのであろう。質素倹約どころか笑顔が溢れる豪華な行列だったようである。お殿様もお忍びでご覧になったそうだ。太平の御代に何代目かの殿様の御発案とはおそらく彦根藩主第11代井伊直亮であろう。
殿様は何故「鬼債ない」を発案したのだろう……。花見も祭りも年に一度の庶民の楽しみのひとつである。コロナ禍はイベントや催事のあり方を見直すチャンスだといわれている。「鬼債ない祭り」の記憶は観光集客だけではない、アフターコロナのイベントにひとつの考え方を示す宝物ではないだろうか。