徳川家康以来、幕府の儒家思想は朱子学であったにも関わらず、彦根藩は朱子学に批判的であった荻生徂徠にはじまる徂徠学(古文辞学派)が発展した土地として知られている。中国の古典を成立時の意味で解釈しようとする立場である。
彦根藩井伊家第13代直弼も青年期に学問をする中で、原点は何なのかを遡り考える資質を身につけている。特に茶の湯において、当時の乱れた世間茶というものを否定し、茶は何なのかということを追求している。後の世の解釈ではなく原点に立ち返り真理を求めること。その気風こそ彦根の宝物ではないだろうか。 今回は、彦根藩校の歴史を遡る。

正面には切妻むくり屋根(上方に対して凸にふくらんでいる屋根のこと)の玄関が付けられ格式が感じられる。

稽古館

金亀会館(彦根市中央町3番46号)は、彦根藩校「弘道館」講堂である。大正12年に彦根城第二郭(現彦根市立西中学校グランド)から移築された藩校の唯一現存する建物だ。
江戸時代、享保期(1716〜1735)から寛政期(1789〜1801)は、全国的に最も藩校開設の機運が盛り上がった時代だった。幕藩体制がゆらぎ、「享保の改革」(徳川吉宗が主導した幕政改革)「寛政の改革」(松平定信が主導した幕政改革)が実施されるなか、諸藩は人材を育成し、教育の力で藩制改革を成し遂げようとしたのである。
彦根藩井伊家第11代直中の頃、藩内では藩校を創設して有能な人材を広く養成するのか、藩士教育は私塾・家塾にまかせ、従来のように少数でも傑出した人物を育てるのかという両論があったが、寛政6年(1794)藩校設立が決議され、同10年に学舎が完成、翌11年藩校「稽古館」として開校する。家中知行取衆の家督及び部屋住みで15歳から30歳までの者は必ず藩校に出席することが義務づけられた(下級の扶持米取・足軽などの従者は農民・町民と同じく入学できなかった)。あくまでも藩士・子弟の教育機関であり、支配者としての武士を鍛錬し養成する公的機関だったのである。

観音台から彦根市立西中学校グランドをのぞむ。

弘道館

天保元年(1830)、彦根藩主第12代井伊直亮は「稽古館」の名称を「弘道館」と改めた。『論語』の「子曰、人能弘道、非道弘人也」(人能く道を弘む、道人を弘むに非ず)からとったものである。弘道館には講堂のほかにも剣術・槍術・弓術・馬術などを習う施設や、諸学を学ぶ学寮があり、敷地約7,800平方メートル、建坪約2,500平方メートルにおよぶ大規模なものだった。
ところで天保13年(1842)中川禄郎が直亮により儒学の教官として登用されている。稽古館和学方教授の小原君雄の長男として生まれた禄郎は、現・彦根市薩摩町の善照寺の寺侍中川堪解由の養子となり諸学を学んだ。長崎で蘭学者と交わり西洋事情にも通じていた。井伊直弼は、藩校で禄郎の講義を聴くことはなかったが、尾末屋敷(埋木舎)の時代から禄郎とは交流があり、彦根藩の世嗣として江戸出府後も、諸事頼りにしていたという。
直弼もまた、藩主の座につくと、弘道館教育を藩政の要として重視し藩校改革に努め一層の教育振興をはかった一人である。改革のねらいは、藩主および家老ら重役が率先して学ぶことにより、好学の風儀を自然と行き渡らせ、藩士教育体制を根本から改革することにあった。

藩校の授業時間は、寛政11年(1799)11月3日のお達しによると、毎日五つ半時(午前9時頃)から四つ半時(午前11時頃)まで学問、九つ時(午後0時頃)から八つ半(午後3時頃)までが武芸稽古であった。開校当所に定められた教科は、素読・手跡・経書講釈・和学・上泉流兵学・天学・越後流兵学・算学・小笠原流礼節・弓術・槍術・居合・剣術・於軍馬小屋一騎前稽古など。この他、柔術・薙刀術・馬術・砲術など多様な学問・武芸の教育が行われていた。

金亀会館

明治維新後は足軽や平民の子弟も入学が許されるようになり、明治2年(1869)に校名き「文武館」と改められたが、明治5年(1872)には藩立学校廃止令により廃校となった。儒学者龍草廬、中川禄郎、国学者長野義言など優れた教授陣を輩した70年の歴史を閉じたのである。
明治8年(1875)、弘道館の建物及び付属地は、浄土真宗本願寺派の寺院によって創設された「金亀教校」(仏教教育機関)として買収され、翌9年開校式が行われた。その後金亀教校は、明治33年(1900)金亀仏教中学、明治35年(1902)第三仏教中学と改称し、本願寺の直接経営となった。明治42年(1909)第三仏教中学は京都市に移転し、翌年私立平安中学校が開校する(現在の龍谷大学付属平安中学校・平安高等学校)。彦根の仏教中学の敷地は彦根町に寄付され、明治44年(1911)弘道館跡地に彦根町立尋常高等小学校付属工業学校が開校し、現在は彦根市立西中学校のグラウンドとなっている。
大正7年(1918)、旧弘道館の講堂および付属建物を移転し、仏教会館を新設し、各種の教化事業を行うことが計画され、大正12年(1923)に現地に移築、金亀会館として持主の本願寺派滋賀教区教務所から彦根市が無償で借受け、各種集会場として利用されてきた。

中央を一段高くして「仏間」に利用されている。かつては孔子を祭り、祭器などが置かれる空間ではなかったかと考えられている(2013年撮影)。

平成19年(2007)に彦根市指定文化財に指定。平成21年(2009)に市に寄付され、歴史的風致形成建造物として、「歴史まちづくり法」に基づく整備が進んでいる。また、弘道館の範囲を確認する発掘調査と講堂部分の発掘調査は既に終了し、今後、どのように進め、活用していくのかが課題となる。今後、金亀会館を旧彦根藩藩校跡地にもどし、藩校として整備をしていくことができれば、世界にアピールすることができるかもしれない。


参考
  • 『新修彦根市史 第二巻 通史編 近世』
  • 『新修彦根市史 第三巻 通史編 近代』
  • 『彦根東高百二十年史』