彦根プレミアム塾「彦根ヒストリア講座」はコロナ禍で8月開講の戦国編が延期され、開催時間も変更になっている。スケジュールをもう一度確認しておきたい。
さて、今回は「佐和山城城門の行方」である。彦根市及びその周辺に遺る石田三成記念物として紹介したい。

宗安寺表門(赤門)彦根市本町2-3-7

宗安寺表門(赤門)

夢京橋キャッスルロードの中ほどにある宗安寺の表門は、古くから赤門と呼ばれ地域の人々に親しまれている。宗安寺は慶長5年(1600)関ヶ原の戦いの勲功で直政が佐和山城の城主となると、佐和山の麓に高崎安国寺を分寺し、西軍毛利方の将安国寺恵瓊(えけい)の名を避け、開基東梅院の父君松平康親公の戒名「無月宗九居士」の「宗」と母君の戒名「心誉理安大姉」の「安」から宗安寺と称した。そして直政公没後、慶長8年(1603)宗安寺は彦根城築城に伴い、京都へ向かう京橋御門大手前通(本町)に移築され現在に至る。
詳しくは、其の五(一)其の五(二)、赤門に関しては、其の五(二)に記している。

妙源寺山門 彦根市河原3-4-32

妙源寺山門

花しょうぶ通りの妙源寺山門は「もうひとつの赤門」と呼ばれ、この朱塗りの門もまた、佐和山城のいずれかの城門であったと伝わる。
彦根藩第8代井伊直定が病に臥せったとき、熱心な法華経信者だった側室が、妙源寺に日参し回復を祈願すると直定は健康を取り戻したという。
山門は、平成14年(2002)に修復。柱の位置などを変えた際、多くの生々しい傷痕が見つかった。佐和山城落城の矢穴ではないかと考えられるという。門扉については自動車事故により破損したため、新しいものに取り替えられている。

専宗寺太鼓楼 彦根市鳥居本町1725

専宗寺表門。向かって左に太鼓楼の天井板が立てかけられている。

中山道沿にある専宗寺は、山門の右隣の太鼓楼(2階建て)の天井板が、佐和山城のいずれかの城門の扉を使ったものだと伝わる。かつては佐和山城下の本町筋にあり、泉山泉寺と号していたが、寛永17年(1640)に泉山専宗寺と改め、西法寺村に移った。江戸時代、中山道に沿い上矢倉村・鳥居本村・西法寺村・百々村の4ヶ村が連なり鳥居本宿を形成していた。
『ふるさと鳥居本』によると三成の家臣であった足軽・北助が佐和山城落城の際に、裏門脇の通用門を一族と共に密かに自宅に持ち帰り隠しておいたものを、専宗寺に寄進したと記されている。
残念ながら太鼓楼は老朽化のため解体され、天井板は表門に立てかけられている。

高源寺総門 多賀町楢崎374

高源寺総。平成28年のライトアップの様子。

高源寺は近江源氏佐々木氏の四天王であった楢崎氏の楢崎城跡が残る山の麓にある。織田信長によって佐々木氏が滅ぶと楢崎氏もこの地を離れ、以後廃寺となったが、これを再興したのが彦根藩井伊家の家老、脇坂・宇津木の両家であった。
明治9年(1867)、総門を残して全焼。多賀大社の正覚院、般若院、不動院を移し再建され、現在に至っている。焼失を免れた総門は、彦根城築城のために廃城になった佐和山城の裏門を移築したものとされている。
高源寺は紅葉の名所で、平成28年(2016)Light & Art Festival「Dramatic Legacy」が開催されたときには総門・参道・庭園がライトアップされた。
2021年10月1日から彦根城のライトアップが始まる。Light & Art Festival以来継続されているもので、堀端の歴史的景観が夜空に浮かぶ。目の前に広がる光景に何を見るのか、歴史講座もそうだが、その美しさや愉しさは興味の持ち方次第で大きく変わってくるのである。


参考文献
  • 『ふるさと鳥居本』(ふるさと鳥居本編集委員会編・彦根市立鳥居本中学校発行・1979年)
  • 『三成伝説』(オンライン三成会編)