渋沢栄一

NHK大河ドラマ「青天を衝け」の主人公渋沢栄一は、明治政府が日本の近代化を推し進め国の基礎を築いていくなかで、事業理念の範を『論語』に求め、日本の資本主義を設計し実業界を育てていった人物だ。
「事業が正業であるならば公益と私益とは一致し、商人を国家を裕福にする実業家と位置づけ、企業の目的が利潤の追求にあるとしても、その根底には道徳が必要であり、国ないしは人類全体の繁栄に対して責任を持たなければならない」。渋沢は生涯、「道徳経済合一」(『論語と算盤』)、利潤と道徳の調和を説き、国を富ませ、人々を幸せにすることを考え、実践していった。
渋沢は天保11年(1840)2月13日、現在の埼玉県深谷市血洗島(ちあらいじま)の農家に生まれた。家業の畑作、藍玉の製造・販売、養蚕を手伝い、6歳のとき父に学問の手解きを受けた。7歳で本格的に『論語』を学んだのは従兄の尾高惇忠からだった。尾高は富岡製糸場初代場長となる人物である。

世界遺産 富岡製糸場

彦根製糸場

明治5年(1872)、政府は群馬県富岡に官営器械製糸場を開設した。彦根からも近代製糸技術を学ばせるため、明治8年頃より士族の子女を多数の富岡製糸場に送り出している。明治7〜8年頃、富岡製糸場は工女不足が深刻化していた。そのとき、場長の尾高のもとで工女募集に当たっていたのが韮塚直次郎だった。直次郎は同じ彦根出身者である妻峯と彦根を訪れて工女の募集に奔走した。その募集に応じた者のなかに、彦根藩士遠城謙道(おんじょうけんどう)の妻繁子がいた。繁子は39歳、子女2人を伴い富岡に赴いた。場長尾高は、忠君の志篤い遠城一家の窮状を聞き及び、繁子の来場を歓迎して、ただちに工女取締役に抜擢したという。
その後、繁子に導かれるように彦根から富岡製糸場に入った工女の数は、明治9年153名、10年167名、11年132名と、地元の群馬県や長野県を上回る最多数に達し、全工女の約3割を占めるようになった。
明治11年(1878)、平田村(宇津木家下屋敷跡)に県営彦根製糸場が完成する。現在の芹橋雨壺山通りと平田川が交わる平田橋のあたりである。富岡製糸場で製糸技術を学んだ女性など100名と男性労働者2名が雇われ操業が始まる。滋賀県が経営していた時期の彦根製糸場は、生糸の生産を行っただけでなく、製糸技術の普及にも力を入れた。製糸技術の普及こそが、県営彦根製糸場の中心的な任務だったのである。
明治の近代化において遠城繁子の果たした役割は実に大きい。彦根製糸場の遺構はその痕跡すらない。彦根製糸場は世界遺産富岡製糸場と遠城繁子の記憶を紡ぐ記憶遺産なのである。

井伊直弼朝臣像と遠城謙道碑

遠城一家の窮状

彦根城内にある井伊直弼像のすぐ横に『遠城謙道師之碑』と彫られた石碑がある。
通称を遠城平右衛門、名は保教といった。遠城家は足軽の家系である。謙道は人一倍、忠義心に篤く、直弼が暗殺を家臣として防げなかったことをひどく悔やんでいたといわれる。
桜田門外の変の後、彦根藩は京都守護職を解かれ、領地を10万石没収された。遠城謙道は、この措置を不服として、幕府老中井上正直に陳情書を提出するが、一藩の足軽が幕府に陳情することは越権行為であり、遠城謙道は彦根での謹慎処分を命じられる。文久年間以降、直弼の開国政策が厳しく批判され、これを悲しみ、直弼の墓守として一生を過ごす決意をする。家を捨てて、二度と妻子に会うことはなかった。
謙道が僧籍に入った時、妻の繁子は29歳。藩の掟によって俸禄は没収。しかも彼女は妊娠しており、7人の子を独りで子を育てることになったのである。


参考文献
  • 『滋賀県の近代化遺産ー滋賀県近代化遺産(建造物等)総合調査報告書ー』滋賀県教育委員会(2000年))
  • 『彦根市史 下冊』(1964年)
  • 『新修彦根市史 第3巻 通史編 近代』(2009年)
  • 『彦根ゆかりの近代化遺産』彦根市教育委員会 / 平成12年度生涯学習講座テキスト