井伊直中は彦根藩第11代藩主(1766〜1831)である。明和3年(1766)、第10代直幸(なおひで)の7男として江戸で生まれた。日本を開国に導いた直弼の父である。幼少時は江戸で過ごし、安永3年(1774)、彦根に引っ越し、城下の広小路御屋敷(現在の彦根東高校敷地内)で暮らすことになった。直中はこの屋敷で剣術、鎗術、弓術、鉄砲、手習い、漢文、儒学などを学んだ。この時の学問修得はのちの直中の藩政に大きな影響を与えることになる。
例えば寛政2年(1790)幕府は「寛政異学の禁」を発して朱子学を正統学派とし、その他の学派は「異学」と位置づけたが、直中は広小路御屋敷で徂徠学派の代表的儒学者の野村公台から人材登用の重要性や国家の政治論などの教えを受けていた。寛政11年(1799)に直中が開校した藩校「稽古館」で徂徠学派を採用したのも頷けるのである。
また、少年時代から父直幸のもとで能を嗜んでいた直中は、寛政12年(1880)末に彦根城表御殿に能舞台を新設した。
幕府の規格に沿った能舞台
室町末期から戦国にかけて能楽は将軍や諸大名に愛好され、年中行事として重要な位置を占める芸事だった。江戸時代、歴代の将軍は皆熱心な愛好者であり、能楽が幕府の式楽となり、芸能統制を経るなかで能舞台も格式化され、江戸城本丸の表舞台を頂点として能舞台の様式が定められた。式楽とは、儀式用に用いられる芸能である。
幕府の能楽に対する保護政策は彦根藩でも能楽奨励となって現れる。貞享3年(1686)4代井伊直興は、能好きの将軍綱吉に従う姿勢を示すために55人もの能役者を一斉に召し抱えたといわれている。直興が隠居すると彦根藩の能は一旦衰えるが、再び、藩内で能が盛んとなったのは、10代直幸、11代直中の時代だった。
直中は、寛政11年(1799)、喜多流10世盈親(みつちか)の甥、織衛(おりえ)ら多くの能役者を召し抱え、その後、能役者の家は多い時で22家を数えた。表御殿や槻御殿に能舞台が建てられ、彦根藩の能は最盛期を迎える。
彦根城表御殿の能舞台は、江戸城本丸のそれによく似ている。建物の基本的な構造形式は、ほとんど同じといってもよい。解体調査のデータから、構造形式など基本的な諸点については、江戸城本丸の表舞台と合致しており、幕府の規格に沿った能舞台であることがわかった。しかし、彦根城表御殿では柱の面取りが几帳面ではなく単なる大面取りであることや、飾り金具をほとんど使用していない点など、細部で若干の相違がある。基本的な構造を江戸城本丸の表舞台に準じながらも、やや格を下げて造られている。そうすることが、幕府が定めた能舞台の規範に添うことの実体であり、幕府はそれを要求し、藩も又それに従うことで恭順の意を示していたのであろうといわれている。
江戸城本丸の表舞台はもはや存在していない……。そして、江戸時代には全国のほとんどの城に能舞台があったはずだが、今も実物が残っているのは彦根城だけである。表御殿の能舞台は、数奇な運命を辿りながら、彦根城博物館棟のほぼ中央、かつて存在した寸分たがわぬその位置に往時の姿を留めている。
表御殿能舞台の数奇な運命
明治11年(1878)頃、表御殿は旧体制の遺物として解体されることになり、建物の多くが公売に供されるなか、能舞台のみ井伊神社に移された。昭和25年(1950)、腐朽荒廃が甚だしく、彦根市によって沙々那美神社境内(彦根市民会館)に補修移築されることになった。『新修彦根市史 第十巻 景観編』89頁に写真が掲載されている。そして昭和38年(1963)、護國神社に移築。これは解体移築ではなく、引き家によるものであった。そして昭和60年(1985)、彦根城博物館の建設に際し、再びもとの位置へ移築復元することになった。能舞台の移築に伴い解体調査が実施され、長い風雪によって建物の各所に傷みが認められたが、主要部材のほとんどは当初のままであったと報告されている。
この能舞台では、毎年「彦根城能」や「狂言の集い」が開催され、由緒ある能舞台で伝統芸能に触れる機会として好評を得ている。
- 参考
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- 彦根城世界遺産への道 第5回 彦根城の儀礼空間
- 『井伊家十四代と直虎』(彦根商工会議所編 サンライズ出版)
- 協力
- 彦根城博物館学芸史料課