旧彦根藩松原下屋敷(お浜御殿)

彦根は槻御殿と松原下屋敷(松原町515)の二つの下屋敷が遺る数少ない城下町だ。琵琶湖畔の松原に造営された「旧彦根藩松原下屋敷」は「お浜御殿」という名で親しまれている。庭園は、平成27年(2015)4月に認定された日本遺産「琵琶湖とその水辺景観~祈りと暮らしの水遺産」の構成文化財である。

松原下屋敷(2009年5月撮影)

槻御殿は、建物部分を楽々園、庭園部分を玄宮園と呼び分けている。延宝5年(1677)、彦根藩第4代井伊直興の造営で、文化9年(1812)、11代直中の退隠に際して大規模な増改築が行なわれ最大規模になった。その敷地面積は、現存する建物のおよそ10倍、藩庁(藩の役所)であった表御殿の約3分の2の規模に達した。

槻御殿(2009年5月撮影)

松原下屋敷は直中により文化7年(1810)頃に造営され、槻御殿とは立地も趣も異なる。離宮的要素が色濃く、書院棟や奥座敷棟、台所棟などが存在するだけで、庭園を主体とした造りになっている。優れた造園技術を駆使し、池を中心に琵琶湖に連なる西側は穏やかな洲浜がり、東側は遠くの山並みを取り込み、築山が折り重なる深遠な景観となっている。

御殿(上屋敷と下屋敷)

江戸時代は、武家政権がもたらした250年余の「平和」の中で、さまざまな「大名文化」が醸成された。武門をもって知られた井伊家でも、歴代の藩主が能や茶の湯などを嗜み、大名文化を牽引する藩主を生み出した。近世城郭は「天守」と「御殿」に代表される。御殿には、藩の政務を行うとともに藩主が日常生活をおくる上屋敷と、隠居した藩主とその一族が余生を過ごした下屋敷がある。

日本唯一、淡水の汐入式庭園

「汐入(しおいり)式」は、海辺の庭園で通常用いられていた様式で、潮の満ち引きによって景観の趣きが変わる。浜離宮恩賜庭園(東京都)や養翠園(和歌山県)などが知られているが、松原下屋敷の庭園は淡水(琵琶湖の水)を利用した汐入式のわが国唯一の庭園である。

松原下屋敷庭園(2009年6月撮影)

松原下屋敷の池は琵琶湖と松原内湖を繫げて、連通管のようになっている。夏の渇水時には水位が下がり、冬は雪どけ水で水位が上がる。琵琶湖の汀線(ていせん:波打ちぎわ)が変化し、池の水位が連動し変化する景観を楽しむことができるように設計されている。
しかし、松原内湖は干拓され南郷洗堰が明治29年(1896)に完成したため、琵琶湖の水位が下がり、残念ながら当時の様子を観ることはできない。どれほど水位が下がったかは、いろは松や黒門の土橋の左右の堀の水位で確かめることができる。金亀山に向かい左の堀が江戸時代の水位、右が琵琶湖の水位である。
松原下屋敷は近世の大名文化を理解する上で欠くことのできない貴重な文化財として国指定の名勝で彦根の宝物なのである。


参考
  • 『井伊家十四代と直虎』(彦根商工会議所編 サンライズ出版)