北殿と南殿の高宮氏

中山道高宮宿は、古代には近江国犬上郡高宮郷、中世には高宮の荘(荘園)があった地で、この辺りを高宮氏が領していた。高宮氏には2系統ある。ひとつは鎌倉時代末に当地へ地頭としてやってきた紀州の櫟(いちい)氏を祖とする高宮氏だ。初代宗忠(むねただ)は、当時の有力者であり高宮城主だった。もうひとつの系統は、将軍足利義持(よしもち)から勲功として6万貫を与えられて当地に入った六角氏頼(うじより)の3男信高(のぶたか)を祖とする高宮氏である。宗忠の系統を北殿の高宮氏、信高の系統を南殿の高宮氏と呼ぶ。北殿の高宮氏は4代高義のとき、信高に勢力を奪われ弱体化していった。
そして天正元年(1573)織田信長の小谷城攻めのとき、高宮氏は浅井氏と命運を共にし、高宮城に火を放ち一族は離散。高宮城や隣接する高宮寺(こうぐうじ:高宮町2335)も炎上し灰燼に帰した。高宮寺は北殿・南殿の両高宮氏の菩提寺で、現在も高宮氏の6基の墓石が残っている。

高宮寺の始まり

高宮寺の歴史は古く、奈良時代に行基(668〜749)大僧正と婆羅門僧正が伽藍を建立して「称讃院(しょうさんいん)」と号したのが始まりである。鎌倉時代中期、弘安2年(1279)、時宗の開祖であり踊り念仏でよく知られる一遍智真上人(1239〜1289)が諸国遊行の途中、称讃院で賦算を行った。そしてこの時、北殿の高宮氏初代宗忠が、一遍の威徳を仰いで一宇を建立。その後、一遍の弟子で後を継ぎ時宗の二祖となった他阿真教(たあしんきょう)上人の多賀社(現在の多賀大社)参詣を機に、正安元年(1299)、高宮寺は天台宗から時宗に改宗、真教上人を開基とし、切阿(せつあ)上人を開山とした。「開基」は、寺院または宗派を創立(創建)した人物、「開山」は、初代住職となった僧侶のことをいう。切阿上人は一遍の弟子のひとりである。

*「遊行(ゆぎょう)」は、僧が各地を巡り歩いて修行または布教すること。
*「賦算(ふさん)」は、時宗において「南無阿弥陀仏、決定往生六十万人」と記した「念仏札」を配ること。

黒ぼとけ

高宮寺には、貴重な寺宝が数多く伝えられている。特に、「黒ぼとけ」と呼ばれる「木造伝切阿坐像」(鎌倉時代後期)は国指定重要文化財である。嘉暦2年(1327)に仏師法橋仙賢(ほっきょうせんけん)によって造られたもので、肉付きがよい鼻と一文字に結んだ口元など細かい特徴を表す顔や、猫背ぎみに背を丸めた大柄な体など、自然で表情豊かな上人の姿がとらえられている。黒漆塗りで、目には水晶がはめ込まれている。時宗僧侶の肖像彫刻の中で、鎌倉時代に制作されたことが確認できる唯一のもので、肖像彫刻の秀作として評価されている。「黒ぼとけ」は本堂に安置され間近で観ることができる。
絵画では、「他阿真教像」(南北朝〜室町時代)が滋賀県指定文化財、「伝熊野権現影向図」(南北朝時代)、「阿弥陀三尊来迎図」(鎌倉時代後期)は彦根市指定文化財である。 

井伊家と高宮寺

高宮寺は信長・秀吉の勢力のもとでも地子(租税)が免除されるなど保護政策がとられていた。佐和山城主石田三成も保護し、父・石田正継が高宮寺に宛てた書状も残っている。江戸時代にも保護政策は引き継がれ、現存の本堂は元禄5年(1692)に落成、寛政8年(1796)には庫裏の建立に際して、彦根藩井伊家から材木を拝領している。 またあまり知られていないが、高宮寺は井伊直孝の代より、彦根城内の時報鐘の鐘を撞く役を明治維新まで務めている。
中世の早い時期から、現在までこれらの寺宝が受け継がれたのは、それぞれの時代に高宮寺が重要な役割を果たし、人々の厚い信仰があったからではないだろうか。境内の地蔵堂に安置されている地蔵菩薩像は、彦根藩井伊家4代直興が寄進したものである。

彦根藩井伊家から拝領した材木

地蔵菩薩像