多賀大社のはじまり

多賀大社は「お多賀さん」の名で親しまれる近江を代表する神社である。和同5年(712)に撰上された日本最古の書物『古事記』に「伊邪那岐大神は淡海の多賀にまします」と記され1300年余の歴史をもつ。国産みを行った伊邪那岐命(イザナギノミコト)は、多くの神を産んだ後、息子神である須佐之男命の横暴ぶりに愛想を尽かし、高天原から地上へ降りてきた。その時、伊邪那岐命は、まず、杉坂山に降り立ち山道を下っていたが、体調を崩し「苦しい」と言われた。これが来栖(クルス)の地名となった。そして、体調を調えるため一休みされたところが調宮(トトノミヤ)神社となった。その後、現在の多賀大社のある場所に落ち着つかれた。
古事記に記されたのは712年だが、多賀社はいつの頃からかはよくわからないが、神代から鎮座していたのだろう。多賀大社年表(『多賀信仰』)によるとまたの名を「日の少宮」といったとある。   多賀大社と称するのは昭和22年で、それまでは多賀社、多賀神社、多賀大明神などと記されているが、「お多賀さん」の名で親しまれてきた。
多賀社は明治18年には官幣中社、大正3年には官幣大社に列格。昭和20年まで国家管理の神社だった。ながい歴史のなかで建造物は焼失による建替えられ、或いは修理がくり返されてきた。現在の社殿(本殿・祝詞舎・幣殿・神饌所)は昭和4年から7年にかけて国費工事が行われ昭和8年に完成した。檜皮葺の屋根が重なり華麗で変化に富み、優れた近代の神社建築群としてその価値は高い。

戦国武将と多賀大社

浅井猿夜叉の名が刻まれた「梵鐘」(滋賀県指定文化財)が鐘楼にある。奉納されたのは天文24年(1555)。近隣の土豪122人が連名で寄進したものだ。佐々木宮内少輔源賢誉(六角義賢)や、京極家の流れを汲む尼子氏の名もあり、当時、敵・味方の関係があった土豪たちが名を連ねている。地元の武将だけでなく、武田信玄は黄金2枚を寄進して厄除け祈願し、上杉謙信の家臣からは祈願御礼の文書が届いており、甲斐と越後の両雄は共に多賀社を尊崇していた。また、秀吉は母大政所の病平癒を祈願し5年の寿命を得、秀吉は米一万石を寄進している。太鼓橋、奥書院、多賀大社奥書院庭園(国指定名勝)は秀吉の寄進米によって築造されたと伝わっている。多賀大社の太鼓橋は、この所以をもって「太閤橋」と称している。
名だたる戦国武将らは戦勝祈願・武運長久、延寿を願ったのだろう。また当時、上洛を果たすには近江を通らなくてはならない。多賀社がその途上にあったということも理由のひとつだったに違いない。
ちなみに、寛永8年(1631)には徳川秀忠の病気平癒の祈願のため春日局が社参している。

太閤橋

坊人(ぼうにん)の活躍

多賀大社の歴史は神仏混合の時代と「坊人」と呼ばれた人々を理解しなければならない。「多賀町史(上)」によると、多賀社にはいつの時代からか本地堂があり、阿弥陀如来を祀っていたとある。 明応3年(1494)の不動院の開基以来、多賀社の布教は著しく遠国にまでおよび、「長寿の神」としてその名を知られるようになった。これは「坊人」の活動によるところが大きいといわれている。
坊人は不動院およびその配下である観音院・成就院・般若院に付属した使僧のことで、『神社史』によると 「重要な役目はお札配りで、遠近の信者のもとに配り、 初穂の程度に応じて持参の神影を掲げて拝礼せしめ護摩を焚き祈祷をし云々」 とある。 その働きは現在多賀講が全国的な規模に発展する基となっている。
坊人は、山伏姿で全国を巡回して多賀信仰を説き、加持祈祷を行い、廻国行脚すると同時に諸国の情報収集を行ったといわれている。戦国武将や徳川家、井伊家にとって彼らが集めた情報は魅力的だったのではないだろうか。
6月20日、彦根商工会議所4階大ホールで2022年度のヒストリア講座「近江三社寺ものがたり」が開講される。講座では、神仏混合の時代と「坊人」について理解を深めることができるに違いない。

多賀大社の文化財

多賀大社の貴重な文化財は、神仏分離・廃仏毀釈で散逸している。例えば、真如寺(多賀町多賀660)の国指定重要文化財木造阿弥陀如来坐像は、観音院本堂に安置してあったものだ。多くの文化財が失われたとはいえ、「紙本金地著色調馬・厩馬図 六曲屏風」は国指定の重要文化財であり、「多賀大社庭園」は国指定の名勝である。滋賀県指定文化財に「紙本著色三十六歌仙絵 六曲屏風」「奥書院」「梵鐘」などがある。

多賀大社奥書院庭園(国指定名勝)。安土桃山時代の様式を伝える池泉観賞式庭園。正面奥に不動三尊石を組み鶴亀の出島を配し、枯れ滝の下には力感あふれる石橋を渡している


ヒストリア講座「近江三社寺ものがたり」