佐和山城の外堀跡の一部

滋賀県文化財保護協会(大津市)は彦根市佐和山町で発掘調査をしている佐和山城の旧城下町で、外堀跡を発見したと発表した。石田三成が城主を務めていた頃に整備した可能性が高く、豊臣政権時代に築かれた堀や土塁などの惣構(そうがまえ)の確認は県内で初めてだとしている。
国道8号線の米原バイパスの整備に伴い、2018年度から佐和山城の旧城下町の発掘調査を開始。これまでに2019年度に橋台や道、溝、建物の跡、2020年度に本町筋(メインストリート)跡を確認した。
2022年度は1490平方mを調査し、約90度に折れ曲がる地点で全長約7m × 幅約10m × 深さ約70cmの外堀跡を確認した。
佐和山城には16世紀後半以降、丹羽長秀や堀秀政らが城主に就き、石田三成は文禄4年(1595年)に城主に着任し、慶長5年(1600年)まで務めた。城主着任の翌年の文禄5年に三成家臣の須藤通光(みちみつ)が書いた書状「佐和山惣構御普請」(下郷共済会所蔵文書)には、三成によって佐和山城下で外堀などの城下町を整備されたとする内容が記されている。
この書状と今回の発掘調査の結果を受けて、滋賀県文化財保護協会は「三成時代に築かれた外堀だとみられる」と説明。豊臣政権時の惣構は秀吉が直轄で築いた大坂城や伏見城などにあるが、近江の八幡山城、水口岡山城、長浜城などには確認または整備されていないことが確認されている。
佐和山城に外堀など惣構が築かれたことからは、秀吉が佐和山城を重視していたことや三成を家臣の中でも特に信頼していたことがわかる。
滋賀県立大学名誉教授の中井均さんは「今回の発掘調査で堀の存在と位置が確認できた意義は大きい。惣構は大坂城でも慶長3年(1598年)に構えられているため、今回の惣構の堀は豊臣政権の家臣では最初に築かれたものとして評価される」とコメントしている。
ほかにも今回の発掘調査現場の外堀跡などからは、16世紀最末期から17世紀初めまでの焼き物「志野焼」の茶碗の一部なども見つかった。