世界遺産でつながるまちづくりコンソーシアムが主催(事務局 彦根商工会議所)する近江ヒストリア講座「白洲信哉の近江山河抄」は、11月19日(土)米原市民交流プラザ(ルッチプラザ)で開講する。其の一は「徳源院・勝楽寺編」。日本の文化・美意識の源流佐々木 (京極)道誉がクローズアップされる。今回は、乱世を生き延びた京極氏の歴史を辿りながら清瀧寺徳源院を紹介したい。

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乱世を生き延びた京極氏

清瀧寺徳源院は、中山道の柏原宿の近く、清滝山の山麓にある寺である。弘安9年(1286)京極家初代の氏信が京極氏の菩提寺として創建した。寺号は氏信の法号「清瀧寺殿」に由来し、比叡山延暦寺に属する天台宗の寺で山号を霊通山と称する。
氏信の父は佐々木信綱である。後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して討幕の兵を挙げた承久の乱に幕府軍として加わり、勝敗を左右する活躍をしたことにより、近江ほか数ヶ国の守護に任じられた。信綱には4人の息子がおり、長男の重綱は坂田郡大原荘の地頭職を得て大原氏を、次男高信は高島郡田中郷・朽木荘の地頭となり高島氏を、三男泰綱が宗家を継いで近江守護職に任じられ、近江南六郡と京都六角の館を与えられて六角氏を、四男氏信は近江北六郡(高島郡、伊香郡、浅井郡、坂田郡、犬上郡、愛知郡)と京極高辻にあった館を与えられて京極氏を名乗り祖となった。
第5代高氏(道誉)は、足利尊氏らとともに鎌倉幕府を倒し、室町幕府創立にかかわった。尊氏のブレーンとして活躍した高師直(こうのもろなお)、土岐頼遠(ときよりとお)とともに、自由奔放な生き方をした婆裟羅三傑のひとりである。建武5年(1338)、嫡流六角氏に代わって近江守護職に任じられ、出雲・上総・飛騨の守護職を兼任し、京極氏の勢力はそれらの地域にも浸透していった。境内の桜は道誉が植えたものと伝えられ道誉桜(県指定名木・二代目)と呼ばれている。
その後は家督争いや家臣であった浅井氏に追い落とされるなどして、湖北の支配権を失い京極氏は衰退していった。第19代京極高次は、浅井長政の姉(京極マリア)の息子である。小谷城には「京極丸」という曲輪があるが、浅井氏が京極氏の居所として築いたものだ。
高次は戦国の乱世に翻弄された武将である。宗家の六角氏は織田信長によって滅ぼされるが、高次は信長に仕え、宇治槙島城(足利義昭)攻めに従い、このとき近江国奥島の地(近江国蒲生郡・現:近江八幡市)5千石を与えられ京極氏の再興を果たした。天正10年(1582)6月、本能寺の変が起ると、明智光秀に味方したことで秀吉に追われ、柴田勝家を頼るが柴田家も秀吉に滅ぼされてしまうのである。しかし、高次の妹(姉という説もある)の竜子が秀吉の側室となったことから、赦されて秀吉に仕えた。その後、戦の功で大溝城を与えられて大名となり、浅井長政の娘・初を正室とするとさらに出世し、文禄4年(1595)大津城6万石までになる。
初の姉、茶々(淀殿)は秀吉の側室、妹の江は徳川秀忠の正室となり、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いでは、高次は難しい決断を迫られる。はじめは西軍に味方すると思われたが東軍へ寝返り、大津城に籠城し西軍の大軍勢と戦った。西軍の勢力を足止めした功を評価され、若狭小浜8万5千石に加封されて京極氏は再び勢力を取り戻した。

清瀧寺京極家墓所

京極家墓所上段

江戸時代、京極氏は最大26万4千石までになるが、第21代高和の時に讃岐丸亀藩6万石へと転封される。寛文12年(1672)第22代高豊が領地の一部と、祖先の墳墓があった清滝の地を交換して寺の復興を図り、三重の塔(県指定文化財)を建立した。父・高和の院号「徳源院殿徳英道達」から徳源院と改称した。
このとき各地に散らばっていた歴代の宝篋印塔を集め、高次を京極氏中興の祖と位置づけ、墓所の中心に祀り整備したものが、現在の「京極家墓所」である。

京極家墓所下段。手前の白い石廟が高次の墓

土塀で囲われた墓所は上下2段に区画され、上段に向かって右より初代氏信を筆頭に第18代高吉まで歴代当主の墓18基、下段に第19代高次(石廟)を中心に歴代当主や分家(多度津藩)の墓が14基並ぶ。宝篋印塔は鎌倉時代から江戸後期のものまで、それぞれの時代の特徴や変遷が判り、30基以上の宝篋印塔を一度に比較して見ることができるという点でも貴重な資料となっている(墓所全域国指定史跡)。墓の大きさは京極家の栄枯盛衰をそのままに表しているといわれている。

清瀧寺徳源院庭園 

徳源院庭園

客殿の裏にある庭園は、清滝山の地形や自然林を活かした池泉回遊式庭園で県指定の名勝となっている。本来は滝から水が落ち、池には水が湛えられていたが、昭和34年(1959)の伊勢湾台風で水源を失い現在は枯池と枯滝になっている。小堀遠州の作とも伝わるが、江戸時代初期の典型的な作風である。清滝山を借景に四季折々の変化が楽しめ、特に秋の紅葉は見事である。また、山の斜面を利用した高さのある庭は、上まで登ることができるという。

歴史観光は事前学習が必要である。知のアップデートを行うことで宝物はようやく姿を現す。2025年に世界遺産となるであろう国宝・彦根城は知識が更新される度に、様々な異なる分野の知識がリンクすることで深い輝きを増していくことだろう。