城下町と中山道鳥居本宿

中山道は慶長7年(1602)から整備が行われ、江戸の日本橋を起点とし、近江の草津宿で東海道に合流する129里10町8間(約508㎞)の道中に67の宿場が設置された。信濃国木曽を通るため「木曽路」「木曽街道」とも呼ばれ、「中仙道」とも記したが、江戸幕府により享保元年(1710)、中山道として名称が統一された。近江の中山道は、古代の律令制下に整備された東山道のルートをほぼ踏襲し、柏原宿(現米原市)から守山宿まで、鳥居本宿と高宮宿を含む8宿が置かれた。
中山道が整備されるまでは東山道小野村に宿があったが、井伊氏が居城を中山道沿いの佐和山城から彦根山に移すことが決まった慶長8年(1603)、新しく鳥居本宿が置かれることになる。
鳥居本宿は江戸から63番目の宿駅となり、本陣1軒(寺村家)、脇本陣2軒(高橋家・喜良平家)、下矢倉村から北国街道が、百々村から切通道が分岐し、交通の要衝となった。人々の往来や物流は佐和山城時代とは劇的に変化し、文化の伝藩にも大きな役割を果たすことになる。  

数次にわたる増築と各所に飾る破風などが配された複雑な屋根組み

名物「赤玉神教丸」

江戸時代に妙薬として広く知られた「赤玉神教丸」を製造販売する薬店の本店が、有川家住宅(有川市郎兵衛家)である。赤玉神教丸は、下痢・腹痛・食傷などに効果のある妙薬で、多賀大社の神教によって調合したのでその名がある。街道を往来する人々に効能が認められ、鳥居本宿の名産品として江戸や大坂でも広く知られる名物だった。
創業は万治元年(1658)頃の伝えられ、文化12年(1815)に刊行された『近江名所図会』巻之四には、鳥居本について「番場まで一里六町。むかし多賀社の鳥居此駅にありしより名づくる。今はなし。彦根まで一里、八幡へ六里。此駅の名物神教丸、俗に鳥居本赤玉ともいふ。此店多し」と記し、店頭の賑わう様子が描かれている。また、3代目歌川豊国(1786〜1865)の木曽六十九駅錦絵揃物は嘉永5年(1852)に刊行されたものだが、「鳥居本」の画中には「神教丸店」とあり、神教丸が鳥居本を連想させるほど有名だったことを物語っている。

3代目歌川豊国の錦絵揃物「鳥居本」(有川家所蔵)

重要文化財 有川家住宅

現存する建物は宝暦年間(1751〜1764)の建立と伝え、幕末の和宮降嫁や明治天皇の北国巡幸の折には小休所に当てられた。屋敷構えは大きく、間口23m、奥行32m、堂々とした外観、機能的な建物構成は、江戸時代の大店舗の姿を良好に留めている。平成24年12月28日、重文指定を受けた(主屋、文庫蔵、粉挽蔵、薬医門、大蔵、土地附。普請関係文書三冊)。

街道に面した主屋は、外に防火用の土戸を配し、2階正面には1間幅の虫籠窓が3つ並ぶ。

有川家は、中山道の鳥居本宿に所在する製薬業を営む商家である。18世紀の初めに本家から製薬業を引き継いで分家し、本家の隣地に住宅を構えたと伝わる。(中略)
有川家住宅は、江戸時代に近江の地場産業として発展した製薬業を営む商家の遺構として貴重であるとともに、江戸時代に整えられた屋敷構えを伝える町家建築としても重要である

文化庁:文化遺産オンライン

彦根市史編集委員会『新修彦根市史』第10巻(景観編)182ページには図面とともに詳しく掲載されている。

明治天皇御小休所

明治11年の天皇行幸の際に新設されたもので、門を設け、式台から「げんかんのま」「なかのま」「つぎのま」へと進み、「つぎのま」の東側には1段高く「じょうだんのま」を構えた本格的な書院造となっている。
有川家住宅の一般公開は毎年1度10月に開催される「とりいもと宿場まつり」のみ。明治天皇御小休所は非公開である。ビエンナーレ期間中は特別公開である。是非、この機会に訪ねておきたい宝物である。

「国際芸術祭 BIWAKOビエンナーレ 2022」明治天皇御小休所会場 / アーティスト 塩見亮介

国際芸術祭 BIWAKOビエンナーレ 2022」の開催は11月27日まで。彦根市の市街地と鳥居本地域、近江八幡の旧市街と沖島で国内外の81組アーティストたちの作品が各所で展示されている。鳥居本地域、近江八幡の旧市街と沖島で開幕し、国内外のアーティストたちの作品が各所で展示されている。彦根エリアに新たに加わった鳥居本宿「赤玉神教丸」で知られる「有川家住宅 主屋」(彦根市鳥居本町425)は国の重要文化財に指定されている。