甲良町尼子は、佐々木道誉(導誉)の孫・高久が屋敷を構え尼子姓を名乗ったところだ。その後、尼子氏は近江と出雲に分かれ、出雲に移った尼子氏は戦国時代に中国地方で一大勢力となった。歴史に興味を持ち、探求しはじめたとき、佐々木道誉に魅せられる人は多い。足利尊氏のブレーンとして活躍した高師直(こうのもろなお)、土岐頼遠(ときよりとお)と並び、婆裟羅三傑のひとりとして名を馳せたのが道誉である。自由奔放な生き方をした人物で、茶道、華道、能楽、連歌など日本の文化を奥深く極め、能楽や狂言の保護と育成にも力をそそいだ文化人だった。闘茶や連歌にのめりこんでいたといわれている。装い、立ち振る舞いも派手で、婆裟羅の典型であった。
南近江の守護を担った佐々木六角と同じ「佐々木」姓だが、佐々木から分家して北近江の守護として君臨した京極氏の出であるため、「京極道誉」の方が馴染みがあるかもしれない。
また、「道誉」というのは31歳で剃髪して名乗った出家後の号だ。本来は「高氏(たかうじ)」といった。

佐々木道誉は勝楽寺に眠る

勝楽寺の木造大日如来像、絹本著色佐々木高氏像

勝楽寺は、道誉41歳のとき現在の犬上郡甲良町に開いた寺である。ここに道誉は館を構え、応安6年(1373)78歳で生涯を閉じるまで隠棲した。境内には大きな池があり、勝楽寺が織田信長の兵火にみまわれた際には、この池のおかげで大日如来像・六脚門・大日堂などが焼失を免れた。観音寺城の戦いで信長に敗れた六角氏は甲良に拠点を移し、元亀元年(1570)、浅井長政や朝倉義景と同盟を結び再び信長と戦ったとき、勝楽寺は六角氏をかくまい焼き討ちにあったのだ。
道誉の念持仏といわれる本尊の「木造大日如来像」(平安時代)は、静かに考える秀麗な姿が際立ち、国指定の重要文化財になっている。

信長の兵火を逃れた六脚門(室町時代 甲良町指定文化財)

また、勝楽寺に伝わる「絹本著色佐々木高氏像」もまた、国指定の重要文化財である。僧衣姿の道誉が描かれた南北朝時代(1333~1391)の数少ない似絵(にせえ)だ。貞治5年(1366)、道誉が死去する7年前に三男高次が描き、道誉自身が賛を書いている。似絵は平安末期から鎌倉時代に流行した大和絵様式の肖像画をいう。
『私本太平記』の著者吉川英治氏が勝楽寺を訪れ、この肖像画を前に立ち尽くした話はよく知られる。2015年、当所小出会頭と共に勝楽寺を訪れた白洲信哉氏もまた佐々木高氏像を前に押し黙りじっと見入っておられたそうだ。「絹本著色佐々木高氏像」は国立京都博物館に寄託されているのだが、このときは奥山慶道住職のご厚意により勝楽寺で実物を拝観できたのだという。

写真左・絹本著色佐々木高氏像(国指定重要文化財)縦105.4cm、横54.8cm / 写真右・絹本著色佐々木高氏像模写。縦99.0cm、横64.0cm

勝楽寺は狂言『釣狐』発祥の地

寺の背後の山は勝楽寺城趾である。戦闘時にのみ使用された山城だ。ハイキングコースが整備され、往復2時間といったところだろうか。途中に、「狐塚」があり、璞蔵主(ハクゾウス)の話が伝わる。
「昔、勝楽寺の璞蔵主という住職がいた。弟の金右衛門が狩りで動物を殺していることに心を痛めていた。住職は日々、弟に命の尊さを説いていたが、金右衛門はそれを聞き入れようとせず殺生を続けていた。ある日、璞蔵主が外出して山道にさしかかったとき、金右衛門は白狐と見誤り、璞蔵主は非業の最期を遂げる。そこで、金右衛門は初めて兄の殺生の戒めに気付いた」。
この話を元に狂言「釣狐(つりぎつね)」が生まれたといわれている。狂言界では、「猿に始まり狐で終わる」と言う言葉がある。これは『靭猿(うつぼざる)』で初舞台を踏んだ狂言師が、『釣狐』の狐役を演じて初めて一人前となるという意味だ。それほど、技術的にも精神的にも非常に高度な力が演者に要求される大曲なのである。
勝楽寺では昭和35年(1960)佐々木道誉の600回忌に法要が営まれ、茂山七五三師(現・四世千作師)と故二世千之丞師の兄弟が勝楽寺で『釣狐』を奉納している。
ところで、甲良町に隣接する多賀町敏満寺(古名:みまじ)は、世阿弥が「近江は、みまじの座、久しき座也」といったように、近江猿楽発祥の地と考えられている。猿楽は平安時代に生まれ狂言へと発展し、能楽は観阿弥・世阿弥父子により大成されていく。みまじ座は多賀社に奉仕した猿楽者集団である。勝楽寺、佐々木道誉、敏満寺、世阿弥、知る術はないが歴史の邂逅があったに違いない。
余談だが、「狐釣り」とは狐に罠をかける猟のことであり、狂言『釣狐』は、古狐がハクゾウスという僧に化け、狐釣りをやめさせようとする話である。また、ハクゾウスは妖怪の名でもある。白狐が法師に化けること、或いは法師が狐のような行いをすることを「ハクゾウス」という。

勝楽寺本堂は彦根藩剣道場の部材を使っている

井伊直弼は書、歌、茶の湯、能・狂言などの風雅を愛する傑出した文化人だった。能・狂言に造詣が深く、1曲の能、2曲の狂言を遺している。能は琵琶湖を舞台とした『筑摩江(つくまえ)』、狂言は『鬼ヶ宿(おにがやど)』と『狸の腹鼓』である。狂言作品は、彦根藩お抱え狂言師であった茂山千五郎師に与えられ、現在でも、この2曲は、茂山家にとって特別な曲として扱われている。
奥山住職によると、現在の勝楽寺本堂には彦根藩剣道場の部材が使われているという。能狂言がとりもつ縁である。


※勝楽寺拝観の場合は事前に連絡が必要です。