隆盛を誇った百済寺

鎌倉時代の百済寺は、中枢部の300坊に加えて総計1000坊、1300余人を擁する大寺院となり、「天台別院」「湖東の小叡山」と称されるほど隆盛を極めた。織田信長も百済寺に魅了され、永禄11年(1568)自らの祈願所として定めている。
「百済寺は信長の祈願所とする。他の者が祈願所にすると申し出ても受け入れてはならない」と、明らかに百済寺を他の寺院とは別格として扱った。
しかし、百済寺は鯰江城に立てこもって信長に抵抗していた六角義治を支援していたため、焼き討ちにあう。
『信長公記』には「百済寺堂塔・伽藍・坊舎・仏閣、悉く灰燼となる。哀れなる様、目も当てられず」と記されている。また、ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスは、信長が祈願所とした百済寺について「百済寺と称する大学には、相互に独立した多数の僧院、座敷、池泉と庭園を備えた坊舎1000坊が立ち並び、まさに“地上の天国”」と絶賛し、信長の焼き討ちによって失われた百済寺を深く惜しむ内容を書き残している。
天正元年(1573)4月11日、焼き討ちにより“地上の天国”は灰燼と帰したが、信長は、安土城築城の構想を百済寺で練ったらしく、「石曳図額」(百済寺所蔵)が物語るように、焼け跡の石垣や石仏を運び出し、安土城を築城したと伝わる。
余談だが、この「石曳図額」は彦根城築城を描いたものだという説もある。

石曳図額

本坊喜見院の仏間にかけられた横183cm、縦96cmの板絵著色の額。
大きな牛車に緞子を被せた巨岩を積み24人の石曳き人が、軍扇をもった音頭取りの合図で曳き、それを路傍で修験者らしい人、若衆らが口惜しそうに見ている図は動的で、また当時の築城風景を描いた風俗絵としても貴重なもの。
制作年代は、軍扇をもった音頭取りの衣装が南蛮服を着用していること、男達が腰に戦国期特有の「直刀」を挿していること等から安土・桃山時代と推定されている。

百済寺本堂(重要文化財)

百済寺の本堂は室町時代の明応7年(1498)に火災にあい、文亀3年(1503)の兵火をうけ、さらに織田信長によって天正元年(1573)焼失。その後10年余、荒涼たる有様だったが、天正12年(1584)、堀秀政が仮本堂を建て、慶長7年(1602)には146石5斗の地が寺領となった。その後、天海大僧正の高弟の亮算が入寺し、寛永14年(1637)に明正天皇より改建の綸旨(りんじ:天子・皇帝の言葉や命令)があり、井伊直孝、土井利勝、酒井忠勝、春日局などが喜捨、甲良宗広より500両の寄進を得て、本堂・仁王門・山門等が再建されていった。

百済寺本堂

本堂の竣工は慶安3年(1650)、外部の総高欄の擬宝珠に「百済寺本堂慶安5年壬辰3月吉日」の刻銘があり、そのときにすべて完成したことを知ることができる。本堂は、五間六間、入母屋造で正面中央に軒唐破風が付せられ、天台形式の構造をもった均整のとれた建造物である(平成16年12月に重要文化財指定)。外陣と内陣とに引違格子戸を用い、内陣の厨子には、秘仏本尊の十一面観音立像(重要文化財:奈良時代)を安置している。
百済寺が創建されたのは推古14年(606)。開闢法要には高句麗僧恵慈(えじ)をはじめ百済僧道欽(どうきん)が仕え、観勒(かんろく)も永く住したといわれている。観勒は、推古10年(602)に来日し、暦本、天文地理書、遁甲方術書を貢上した百済の僧である。初代住職は道欣で、多くの渡来人が集っていた。
遺された宝物を前に、伝承とともに歴史を振り返ると新たな世界の扉が開くのである。

千年菩提樹

樹齢は推定約千年、直径約1.6m、周囲約5m。この菩提樹は山号にちなんで古来より「仏陀の聖樹」として崇めらてきた。旧本堂の前庭に植えられていたが、天正元年(1573)4月7日に信長の焼き討ちにあい、幹まで焼損した。幸いにも熱が根まで及ばなかったために、幹の周囲から再び蘇り今日に至っている。中央の空洞部(直径80cm)は焼き討ち当時の幹の直径に相当する。


参考