秘仏・百済寺本尊(重要文化財)

東近江市は聖徳太子の伝承を持つ寺社が多い。市神(いちがみ)神社、 阿賀神社(太郎坊)、 石馬寺、 瓦屋寺など、20か所以上も存在する。
「百済寺」(東近江市百済寺町323)は推古14年(606)、聖徳太子の勅願により開かれた近江最古の仏教寺院である。2022年は聖徳太子の薨去(こうきょ:皇族・三位以上の人が死亡すること)1400年目にあたり秘仏・百済寺本尊(重要文化財)の御開帳があった。全高3.2mの十一面観音で、現存する奈良時代最大級の木造仏である。長身だが頭部が小さく、正面の彫り具合は浅く、立体感が少ない。都の仏像と違い素朴で親しみやすいといわれる。
別名を「植木観音」という。聖徳太子が百済博士の慧慈(えじ:高句麗僧・太子の師)の案内でこの山中に分け入り、杉の大木の上半分が、百済国・龍雲寺の御本尊十一面観音にするため百済まで運び出されたことを知り、下半分の根のついたままの巨木に十一面観音を刻まれたことからこの名がある。秘仏は厳重に管理され、一生に一度実物を観ることができればこの世の幸運となるだろう。

本坊喜見院(ほんぼうきけんいん)

百済寺の本坊・喜見院には立派な庭がある。庭の最も高い位置からは湖東平野から湖西の山並みが一望できる。「天下遠望の名園」と題した解説文には「真西の方向、約800km先には渡来人の故郷・百済国があった」とある。百済寺が創建されたのは推古14年(606)、初代住職は百済国の高僧・道欣で、多くの渡来人が集っていた。百済国は660年に滅び、ここからはるか故郷を望んだにちがいない。

本坊庭園

湖東平野が一望できる

井伊直滋と百済寺

彦根城築城のとき、時報鐘は鐘の丸にあった。岩盤に反響して鐘の音が割れることが多く、城下一帯に響き渡るようにと井伊直滋の考案により現在地に移されたという。直滋は二代藩主井伊直孝の嫡男だが、跡を継いだのは末子の直澄だった(直孝には早世した1人を除き、4人の男子がいた)。直滋は若年の頃より幕府に出仕し、直孝が将軍の政務参与として幕政に重きをなすと、世子ながら大名並の役割を勤めていたにもかかわらず、万治元年(1658)、突然寺に入り、武士身分を捨ててしまった。
表向きには「病気により蟄居」とされ当初江戸の寛永寺に入った後、百済寺に入り、直孝に遅れること2年、寛文元年(1661年7月5日)に亡くなっている。直滋が願ったことが直孝に認められず、直孝の立腹甚だしく、親子間の亀裂が修復不可能となったようだ。

井伊直滋公の御墓

百済寺の赤門の南側、夷母谷(いもだに)に「峻徳院殿御墓道」という石碑があり、200mほど奥に「井伊直滋公の御墓」がある。直滋は百済寺に屋敷を与えられて藩士子弟に守られ(監視され)ながら余生を過ごしたのだろう。時報鐘の鐘の音は百済寺へとつながっている。


参考