『近江山河抄』(白洲正子著)には、こんなことが書いてある。
「近江には奈良や京都に匹敵する美術品はないと書いたが、石造美術だけは別である。美しい石材に恵まれていたのと、帰化人の技術が手伝ったに違いない」。
「天智天皇の二年には、百済が滅び、再び多くの帰化人がこの地に移住した。当時の遺品の一つに、有名な石塔寺の三重の塔がある。それについては今までに何度も書いたことがあるので、説明は省きたいが、私は日本一の石塔だと信じている」。
石塔寺(東近江市石塔町)本堂横の158段の長い石段を登ると塔頂山と呼ばれる山の頂にでる。かつて五木寛之は「そこに広がる“石の海”はこの寺がかつて信仰の中心であったことを物語っている」(『百寺巡礼』第四巻 滋賀・東海)と著した。石の海のなかに立つ高さ7.45mの三重石塔が「阿育王塔」(あしょかおうとう:7世紀飛鳥時代)である。
石塔寺の山号を「阿育王山」(あしょかおうざん)という。開基は聖徳太子と伝わる。聖徳太子が仏法興隆のため近江に48か所の寺院を建立、その満願(結願)の寺として「本願成就寺」と称していた。
寺伝によると、釈迦の滅後100年、インドの阿育王(アショーカ王)が仏法興隆のため84,000の塔婆(とうば)を造り、仏舎利を納めて阿育王塔として世界中に配ったといわれる。日本には二基届き、一基は琵琶湖の湖底に、一基は近江国渡来山(わたらいやま)に埋没したという。
長保5年(1003)比叡山の学僧・寂照法師が宋に留学し清涼山にて修行中、琵琶湖の東辺に阿育王塔が埋もれていることを宋僧より聞き、手紙に記して日本に送った。その後、播州の増位山随願寺の義観僧都がこの手紙を入手し、一条天皇に奏上した。天皇の勅命により探索が行われ、地元の野谷光盛(のやみつもり)は、不思議な塚があることを発見した。天皇は勅使平恒昌(たいらのつねまさ)を遣わし、野谷とともに発掘させ、大塔を発見した。たいそう喜ばれた天皇は、寛弘3年(1006)山号を「阿育王山」、寺号を「石塔寺」と改め七堂伽藍を新たに建立した。阿育王塔に向かって右に三基の石塔がある。二基の五輪塔が野谷光盛と平恒昌の墓であると伝わっている。
鎌倉時代になると、自身の極楽往生、あるいは先祖の菩提を弔うために、仏舎利塔である阿育王塔の周りに、五輪塔や石仏が奉納されるようになり、その数およそ30,000といわれている。仏教の伝来とともにアショカ王の仏舎利塔の造立で信仰心を示した話が伝わり、信仰の証として阿育王塔の伝承が生まれ、寺伝として語り告がれたのではないだろうか。
寺は織田信長の兵火により全山焼失したが、江戸時代初期に天海大僧正の弟子行賢によって現在の寺領部分の復興が成された。
阿育王塔は、百済の渡来人かその子孫が建てたのではないかと推測されている。『日本書紀』巻第廿七天智天皇八年に、「是歳、遣小錦中河内直鯨等、使於大唐。又以佐平餘自信・佐平鬼室集斯等男女七百餘人、遷居近江國蒲生郡。又大唐遣郭務悰等二千餘人」と、百済から七百余人が蒲生に移住してきたことが記されており、また、阿育王塔が百済の都だった「扶余」にある定林寺の五重の石塔と似ていることが、その根拠とされている。渡来山(わたらいやま)の山の名も、「とらいやま」と読むことができる。しかし、実のところ塔の来歴は推論の域を出ず、謎に包まれたままなのである。