えたいの知れぬ魅力

昨秋、「白洲信哉の近江山河抄」と銘打った「近江ヒストリア講座」(主催:世界遺産でつながるまちづくりコンソーシアム)には、急拵えの4回シリーズにも関わらず多くの方が参加され、全回聴講と言うツワモノも少なからずいらっしゃった。
第1講、今に繋がる日本の美意識の源泉として、僕の大好きなバサラ大名佐々木導誉(諱:高氏)を引き合いに、能楽や華道に茶道など室町に花開く日本文化の源は近江だと述べた。
第2講は琵琶湖を中心に近江は「木と石と水」の国とし日本文化発祥の地、縁の下の力持ち的な存在であると、日本一の富士山との伝説などの例を引きながら世界遺産でつながるまちづくりコンソーシアムの意義について言及する。
第3講は聖徳太子と渡来文化、特に石造美術に着眼し、京都のみならず古都奈良の楽屋裏として近江の奥深さを掘り下げ、最終回は竹生島や伊吹山に残る言い伝えや、地域に色濃く残る風習について、白洲正子が言及した近江の「えたいの知れぬ魅力」が久方ぶり現地を巡り今なお健在だったと力説した。
僕は、白洲との旅が端緒となり『近江山河抄』にある「子供の頃から関西へ行くことの多かった私にとって、近江は極めて親しい国であった」と東京から新幹線に乗り右手に伊吹を拝みつつ、比良山を遠望し比叡山が見えてくると、今でも同じ思いであることを再確認する。僕が手がけた「白洲正子生誕百年展 神と仏、自然への祈り」の最初の会場に滋賀県立近代美術館を選んだのも、京都や奈良でなく近江に特別な思いがあったからだ。

2015年6月、勝楽寺(甲良町)。「絹本著色佐々木高氏像」(重文)を観る。

知識とセンス、そしてリスペクト

この度、湖東湖北の5市4町が連携する世界遺産でつながるまちづくりという視点で、改めてこの地を俯瞰すれば、江戸時代を通して彦根35万石は平和な時代の裏方であり、藩祖、井伊の赤鬼こと直政は家康の良き相談相手として、徳川260年平和の礎を築いたのである。
西の抑えとして幕命により築城された彦根城は、明治天皇が典雅さに感銘し廃城令の中で取り壊さずにいたのも、交通の要衝として表の東海道に対し、裏街道の中山道の重要性を認識していたからに他ならない。だが、京や奈良に比べ一見地味なこともまた事実である。
小林秀雄は「解ることは苦労すること」とよく述べていたが、近江は玄人ウケする地域であり、表層をなめるような楽しみかたでは決してその正体を知ることは難しいと思う。知識やセンスによって裏づけられた古人に対するリスペクトとその愛情の深さが積み重なって、点から線へ、そして面へと広がってくるのだと思う。そのきっかけが彦根城の世界文化遺産登録であり、指定後には同じく世界文化遺産の比叡山や富士山とも連携しながら、過去と現在が渾然と溶け合い日本文化発祥の地である地域のひとり一人が語り部となって、正史から抜けおちた歴史や伝統の裏側を発掘してもらいたいと思う。
団体総花的な価値観から個人のニーズ、欲求を満たす時代へと変化する中で、近江の「えたいの知れぬ魅力」は時代の要請なのである。