母利 美和(もり よしかず)
1958年兵庫県加古川市生まれ。京都女子大学文学部教授。彦根城世界遺産登録推進協議会学術会議委員。
同志社大学大学院博士前期課程修了。日本近世政治・社会史専攻。1985年彦根市教育委員会博物館建設準備室に着任、1987年から彦根城博物館の学芸員として彦根藩政史・大名文化研究を推進、『彦根城博物館叢書(1)~(7)』『新修彦根市史』を編纂・執筆。2003年京都女子大学に着任、NPO法人彦根景観フォーラム理事、彦根市歴史的風致維持向上協議会委員を歴任。おもな著書は『幕末維新の個性6 井伊直弼』『安政の大獄の真実』『江戸時代 近江の商いと暮らし』など。
彦根城を初めて訪れたのは38年前、六〇豪雪でまだ路肩に雪の残る1月末である。早朝、いろは松から佐和口多聞櫓に通じる道は、静寂と凜とした空気に包まれていた。それから2ヶ月間、この道を通うことになる。彦根城博物館の開館準備のためである。佐和口多聞櫓の北東側、当時は彦根市民ギャラリーと呼ばれた復元櫓の二階に保管されていた「井伊家文書」約2万8千点の博物館への寄託受け入れのため、地味な気の長い点検作業であったが、毎日この道を通うたびに背筋が伸び、すがすがしい気分になった。
この中堀に包まれた、いろは松から佐和口多聞櫓、そして天秤櫓・天守の白壁と木々の緑が織りなす景観は、今も一番、もっとも好きな彦根城のビュー・ポイントである。観光パンフレットなどでも多く取り上げられる景色でもある。のちに博物館での仕事のなかで分かったことであるが、実に巧妙に計画された「景観遺産」であった。
大坂の陣で徳川が豊臣勢力を制圧した後、彦根城は軍事拠点から政治拠点へと大改造されることになる。本丸の天守前にあった藩主御殿は、現在博物館のある表御殿に移され、南の大手口に替わり表御門口を城郭の正面に位置づけたのである。それは、幕府の重臣となり、将軍からもっとも信任された大名として、江戸参勤の利便性を意識した転換であった。そして、まだ内堀しかなかった城郭には中堀・外堀が整備され、三重の構えを備えた城下町に変貌した。
その際、表御門に通じる佐和口御門と両翼に伸びる白亜の多聞櫓が造営され、佐和口御門に至る中堀沿いの通りには、殿様の参勤交代にともなうセレモニーのための儀礼空間として、長寿・不変の象徴である常緑の松並木が国入り・参勤を演出した。
中山道の鳥居本宿から佐和山の切通峠を経て城下に入ると、大名行列は威儀を正して整列し、殿様は駕籠を降り騎乗にかえて城下を外船町・柳町・彦根町を通行した。いろは松に通じる切通口御門(現在のキャッスルリゾートホテルの南側)をくぐると眼前には、白亜の佐和口多聞櫓。城山の中腹には天秤櫓と天守が常緑の松に浮かびあがり、中堀の水面には白亜の櫓の影が映り込んだ。ここから殿様は馬を降り、いろは松に居並ぶ上・中級の家臣と対面しながら城内へ入ったのである。佐和口に向け真っ直ぐ伸びた中堀と松並木、折り重なる白亜の櫓と天守、すべての角度とボリューム・バランスが計算され尽くされた見事な景観である。
好運にもこの景観は、近代以降の廃城の危機を乗り越え、百数十年守りつがれてきた。世界遺産への登録は、住民にとっての目的であってはならない。この景観が創造され、遺されてきた歴史への理解と、「景観遺産」を誇りとして守り続ける覚悟と共感が問われている。彦根城世界遺産の登録実現は、われわれが暮らす地域の多様な歴史遺産を見つめ直すきっかけとなるだろう。歴史を活かすも捨て去るも、我々の選択と覚悟にかかっている。