茶論集『栂尾美地布三(とがのおみちふみ)』

世の中を よそに見つつも 埋もれ木の 埋もれておらむ 心なき身は(「平成29年3月18日〜12月10日に開催された国宝・彦根城築城410年祭の主催事業『西の丸三重櫓特別展「プレイバック城下町 彦根シアター」』より)

では、直弼公の茶の湯とはどのようなものであったのか……。
天保2年(1831)、直中公の死去を契機に直弼公は、後に埋木舎と自ら名付ける「尾末町屋敷」に移り住むことになる。埋木舎という名には、井伊家を継ぐことも、他の大名家に養子に出されることもない自身の境遇を「埋もれ木」にたとえ、世に出ることのない生涯であったとしても、「なすべき業(わざ)」に全力を傾け取り組もうという決意が込められていた。「なすべき業」とは、禅、武術、能・狂言、国学・和歌、焼物、茶の湯。埋木舎に学び培った精神が、のちに大老となった直弼のバックボーンとなっていく。
直弼公が埋木舎に移り住んだときには茶室は無く、ふとん部屋を改造して四畳半の茶室にしたという。この茶室が「澍露軒(じゅろけん)」である。
直弼公と茶の湯との出会いがいつ頃なのか定かではない。埋木舎時代に著した『栂尾美地布三(とがのおみちふみ)』という茶論書がある。「栂尾(とが)」とは中国から茶を伝えた栂尾高山寺の明恵(みょうえ)上人をさし、「美地布三」は「道の文」、「茶の道の文」という意味である。この茶論書で「茶の湯はやさしいもので、茶を点てる作法も定まったものではなく、器なども有るものにまかせ、あながち珍しいものを好むものではない。精神修養として茶の湯を行えば武士にも有益である」と記し、あるがままにもてなす主客の交わりを重視し、流派にとらわれない茶の湯を考えていたようである。

  • 形式主義、珍器名物主義を否定(当時流行していた茶の湯の現状批判)
  • 「諸業の助」精神修養として茶の湯
  • 主客の交わりの重視

澍露軒(じゅろけん)

直弼公は、江戸に出る前年の弘化2年(1845)10月、『入門記』を著し、石州流の源流を正して独自の一派を為すことを自他共に示した。冒頭では、「道の之(これ)おこなわれざる也、我之を知る矣、知者は之を過ぐ、愚者は及ばず」と述べている。「道」は「茶道」のこと。「道」が行われていないことを「我これを知る」、そして知識人は理念に捉われ過ぎ、愚者は理念そのものを理解しないと、現状を痛烈な批判とともに直弼公は嘆いている。

『茶湯三言四句茶則』

茶湯三言四句茶則(「平成29年3月18日〜12月10日に開催された国宝・彦根城築城410年祭の主催事業『西の丸三重櫓特別展「プレイバック城下町 彦根シアター」』より)

その少し前、弘化2年(1845)3月、直弼公は「茶湯三言四句茶則」を著し、「茶非茶、非非茶、只茶耳、是名茶」と有名な言葉を遺している。
まず「茶は茶に非ず(現世の茶を否定)」とし「次ぎに「茶に非ずに非ず」(しかしそれも茶でないとは言えない)、「ただ茶のみ」(全ての思惟を超えて茶の道がある)、「是を茶と名付ける(茶であって茶でない境地が茶である)」と新しい境地を示している。それは、大名茶道である石州流を更に遡り千利休がつくりあげた茶であった……。
その後、江戸に出た直弼は、藩主として、大老として重職を果たしながら、推敲に推敲を重ね生み出されるのが茶の湯の精神を強く強調する『茶湯一会集』なのだ。

次回は、『茶湯一会集』について取り上げる。


参考
  • 『井伊直弼』母利美和著
  • 『井伊家十四代と直虎』彦根商工会議所編
  • 彦根城博物館ウェブサイト