茶の湯条例
2023年4月1日、「井伊直弼公の功績を尊び茶の湯・一期一会の文化を広める条例」が彦根市で施行された。大阪府堺市、島根県松江市に次ぎ、全国で3例目となる「茶の湯条例」である。
条例の前文には、『彦根における茶の湯の歴史は深く、井伊家の歴代当主は茶の湯の道を修め、特に13代当主の井伊直弼公は、自身が埋木舎と名付けた屋敷で茶の湯を始め文武にわたる諸芸に打ち込み、後に幕府の大老に就任してからも自らの茶の湯の探求および実践に励んだ。その過程において、井伊直弼公は、千利休を始めとする先人たちが築き上げた侘びの茶の原点を見つめ直し、自ら著した 「茶湯一会集」において、茶の湯の心構えを「一期一会」の言葉に昇華し、世に示した。一期一会の精神は、私たちが現代社会においても大切にしたい心の在り方であり、広く世界に共有しうる普遍的な考え方として後世に伝えていきたい』(要約)と記されている。
政治家として、開国の決断や安政の大獄を断行した直弼公と、禅、居合、国学において原点まで遡り真理を探ろうとする知の探求者・文化人としての直弼公は、別々に評価されてきた。直弼公の茶の湯における、源流を正す姿勢と、幕府権力回復のために取り組んだ大老政治の姿勢は共通するのではないだろうか。
茶人直弼公
直弼公は、江戸時代後期を代表する茶人である。埋木舎で過ごした青年時代から先人の茶書をひもとき研鑽を積み、茶会の開催や茶書の執筆、茶道具の制作などに熱心に取り組んでいる。
28歳の頃から埋木舎の一隅に窯を設けて楽焼の制作をはじめ、その作品は、記録に残るものを含めると100点以上も確認されている。種類は茶碗や茶入、香合、蓋置など多岐に渡る。その多くは、茶の湯の弟子でもあった家臣らに贈られ、自作の茶道具を通して、自らの茶の湯のあるべき形や美意識を弟子たちに伝えていたと考えられている。
直弼公の茶の湯がどのようなものであったか……。まず、茶人としての直弼公について知っておきたいことをまとめてみた。
直弼公の茶号
「宗観(そうかん)」「柳王舎(やぎわのや)」「澍露軒(じゅろけん)」「無根水(むねみ)」など
槻御殿時代
父直中公は槻御殿に茶室を建立。直弼公は彦根藩御抱能役者の高安彦右衛門より石州流の茶を学ぶ。井伊家では茶の湯が儀礼化し、藩主や家臣たちの間で日常的に行われていたことが知られている。
埋木舎時代
大和小泉藩主片桐貞信(新石州流・石州流中興の祖)との彦根藩の茶人真野善次(明美)を介した交流。茶室「澍露軒」で茶の湯の研鑚を続ける。弘化2年(1845)、31歳で『入門記』を著し、石州流の現況を批判して「止むを得ず流源を正して、吾一派を作すに及べり」と一派創立を宣言。
世子・藩主・大老時代
重職のあい間を縫って、茶の湯の精進を続ける。多量の茶書を収集・研究(石州流以外に、千家や遠州流など広く他流も学ぶ)。
彦根と江戸で頻繁に茶会を開催。
『彦根水屋帳』:直弼公が彦根において催した茶会の道具立などについての自筆の記録。表御殿天光室・不待庵のほか槻御殿などで開催し、家臣や住職・幕府の数寄屋坊主などが招かれる。
『東都水屋帳』:直弼公が彦根において催した茶会の道具立などについての自筆の記録。本書は嘉永子年11月21日から始まり申の年正月19日で終っている。上屋敷一露亭ほかで開催し、家臣や住職のほか、他藩の藩主や幕府の数寄屋坊主、片桐宗猿、嫡男愛麻呂、二女弥千代などが参席(女性の参席は注目される)。
次回は、直弼公が著した茶論集『栂尾美地布三(とがのおみちふみ)』と『茶湯三言四句茶則』について取り上げる。
- 参考
- 『井伊家十四代と直虎』彦根商工会議所編
- 彦根城博物館ウェブサイト