大石 学(おおいし まなぶ)

1953年東京都生まれ。 東京学芸大学大学院教育学研究科(修士課程)修了。 2001年より東京学芸大学教授。 2016年4月~2018年3月まで東京学芸大学副学長を務める。 2023年8月まで日本芸術文化振興会監事。
『るろうに剣心』(2012〜2021年)、『柘榴坂の仇討』(2014年)、『新選組!』(2004年)、『龍馬伝』(2010年)、『八重の桜』(2013年)、『花燃ゆ』(2015年)、『西郷どん』(2018年)など数多くの映画や大河ドラマの時代考証も手掛けている。 主な著書に『新選組―「最後の武士」の実像―』(中公新書、2004年)、『江戸の教育力―近代日本の知的基盤―』(東京学芸大出版会、2007年)、『敗者の日本史15・近世日本の勝者と敗者』(吉川弘文館、2015年)など。

「平和」「文明」の象徴・歴史遺産レガシーとしての彦根城シンボル

100年以上の戦国時代を克服して始まった江戸時代は、250年以上にわたり国内でも外国とも戦争をしない世界史上稀有な「平和」の時代であった。それは、自然・宗教の大きな影響力のもと、呪術や武力による問題解決・秩序形成を基礎とする「未開社会」から、法と文明にもとづく制度・システムを構築した「文明社会」への転換でもあった。「平和」の達成にともない、全国各地に広く存在した城郭の多くは破却され、残ったものも軍事施設から行政施設へと機能と性格を変化させた。そして、城郭に勤める武士もまた戦闘者から官僚へと、その性格を大きく変えたのである。
さて、現代に残る江戸時代の城郭は、その壮大さ美しさにおいて、日本人のみならず外国人からも強い関心を集め、文化財・観光資源として重要な役割を果たしている。ともすると、石垣、堀、櫓(やぐら)、枡形門(ますがたもん)、挟間(はざま)、石落しなどの軍事施設やその機能が注目されるが、実は、江戸時代の城郭のほとんどは、戦争を経験しない「平和の施設」であった。
私自身、観光や研究の対象として長く親しんできた国宝彦根城は、慶長8年(1603)2月12日の徳川家康の征夷大将軍就任と同じ月に築造が開始され、「徳川の平和(パクス・トクガワーナ)」の開幕を告げるモニュメントであった。初代藩主の井伊直政は、慶長5年(1600)関ケ原合戦後、家康により、年来の武功を称賛され、「開国の元勲」(『徳川実紀』)と評された。石田三成の居城佐和山城を与えられた直政は、家康の許可を得て、その西南の地、琵琶湖畔の彦根に新たに築城を計画した。慶長7年2月1日直政は死去するが、6月6日彦根城は完成し、7月1日長子直継が佐和山城から彦根城に移り、ここに彦根藩が成立した。当時、彦根は、フロンティアの地であり、山城(やまじろ)佐和山城から平城(ひらじろ)彦根城への井伊家の移転は、戦国時代の終焉を示す出来事であった。家康は、彦根が「帝都警衛の要地」(『徳川実紀』)であることから、美濃、尾張、飛彈、越前、伊賀、伊勢、若狭の七か国の人夫を動員する公儀普請を実施し、城郭の石垣を築いた。その250年後の幕末、元治元年(1864)に松代藩の洋学者佐久間象山は、尊王攘夷激派に席捲されている京都から孝明天皇を「御動座彦根城ニ奉移義ヲ企」(『史料叢書「幕末風聞集」』東海大学付属図書館所蔵史料翻刻」)と、彦根に移す計画を立て、そのために京都で激派に暗殺されてしまう。
しかし、江戸時代250年の「平和」と「文明化」は、フロンティアであった彦根を、帝都京都の文明を引き受けるまでに成長させていたのである。
さて、幕末期の彦根藩第13代当主井伊直弼は、攘夷派の強い反対を押し切って西洋列強との貿易を許可する「開国」を断行した。パクス・トクガワーナは、彦根藩井伊直政の「開国」で始まり、直弼の「開国」で終わったのである。
平成4年(1992)、彦根城は日本の世界遺産暫定リストに掲載されたが、その後30年間登録推薦を見送られている。令和元年(2019)に始まる新型コロナウイルスのパンデミックや、同4年勃発のロシア・ウクライナ戦争などは、グローバル化のもとでの「平和」と「日常」の大切さを世界的に再認識させている。私たちが、彦根城を軍事施設としてではなく、「平和」「文化」「文明」の象徴(シンボル)・歴史遺産(レガシー)として、その価値を世界に発信する意義は大きい。