*synchronicity:「意味のある偶然の一致」
ばけばけ 化ける時代と見えない世界
今秋、NHK連続テレビ小説『ばけばけ』が始まった。タイトルは「化ける」の意味で、幕末から明治という暮らしや価値観が急速に変わって「化けて」いく時代に取り残された人々の思いが、やがてすばらしいものに「化けて」いくという思いが込められている。「この世はうらめしい。けど、すばらしい。」松江の没落士族の娘・小泉セツと八雲(ラフカディオ・ハーン)をモデルに、西洋化で急速に時代が移り変わっていく明治という時代を生きる人々を描いた物語だ。
八雲は、『知られぬ日本の面影』や『怪談』などを書き遺した作家であり、明治期の日本を海外に紹介するとともに、「耳なし芳一」「雪女」「ろくろ首」「むじな」といった古くから日本に伝わる口承の説話を記録した人物でもある。『ばけばけ』には八雲の「怪談」の世界観が作品全体に色濃く反映されている。DXやAI、0と1で構成されるデジタルな現代において、見えない世界、割り切れない感情や曖昧さも『ばけばけ』の魅力のひとつかもしれない。
小泉家のルーツは「近江」にあった
「小泉八雲」という名は、妻・セツの家名「小泉」と、出雲にかかる枕詞「八雲立つ」に由来する。
小泉セツの実家は松江藩の上級藩士だ。『雲藩烈士録』には、セツの先祖に当たる小泉弥右衛門の「本国(先祖の出た国)」は「近江」と記されている。郷土史家増田由季氏によると——荒神山の南側にかつて山崎山城があった。城主は山崎氏。近江源氏佐々木氏の傍流で佐々木憲家が源頼朝に仕え犬上郡山崎の地頭に任ぜられ「山崎氏」を名乗った。江戸時代には、山崎家は因幡国若桜三万石の藩主となり讃岐丸亀藩四万五千石に改易となった。小泉セツの先祖はこの山崎家に仕える武将で、丸亀藩の家老を務めていた。小泉家の記録によると松江藩に出仕した小泉弥右衛門は本貫地が近江で出生地が因幡であり山崎家の歴史と一致する——という。
シンクロニシティ
心理学者カール・グスタフ・ユングが提唱した概念「シンクロニシティ(synchronicity)」は、因果関係では説明できないのに、そこに「意味」を見いだしてしまうような偶然の一致を指す。ただの偶然ではなく、人の内面や歴史の文脈と響き合う「象徴的な出来事」の連鎖だ。
歴史や都市を眺めても、時に不思議な符合が重なり、まるで見えない糸が遠くの点と点を結んでいるように感じられることがある。松江と彦根の両都市には、この意味ある偶然の一致がいくつも折り重なっている。
湖に浮かぶ2つの島 嫁ヶ島と竹生島
滋賀県には日本最大の琵琶湖が、島根県には日本で7番目の大きさを誇る宍道湖が人々の暮らしとともにある。
「はるか彼方の湖水が一番深まる辺りは、言葉にできないほどやさしいスミレ色に染まり、松林の影に覆われる小島のシルエットが、その柔らかで甘美な色彩の海に浮かんでいるように見える」(ラフカディオ・ハーン 『新編 日本の面影』 角川ソフィア文庫)。八雲の松江での楽しみのひとつは、宍道湖に面した行きつけの蕎麦屋から沈む夕陽を眺めることだった。また「低く細長い島には、大きな松の陰に神社がある」と、湖に浮かぶ嫁ヶ島のことを記している。この神社は「竹生島神社」という。
——松江城築城のおり、堀尾山代守吉晴公が湖をご覧になり、「彼の島は湖中の一勝地なり」と申せられ、城の裏鬼門に当たってもいることから、宮島の主祭神である市杵島姫命を勧請して、城下の安泰弥栄と湖中の安全操業、豊漁の守護神とされた。(島根県神社庁)——
宮島は、正式名称を「厳島(いつくしま)」という。その島内にある最も有名な神社が厳島神社だ。 市杵島姫命は宗像三女神の一柱として古くから信仰され、商売繁盛・金運・芸能・水の神格を持ち、「弁財天」と同一視される女神だ。
琵琶湖には西国三十三所観音霊場の竹生島が浮かび、弁才天信仰の聖地として古来より崇敬を集めている。竹生島に鎮座する都久夫須麻神社(つくぶすまじんじゃ)の祭神は、市杵島比売命。神社の本殿は、豊臣秀吉が寄進した伏見桃山城の勅使殿を移転したものだ(国宝・内部非公開)。
佐和山から松江へ
堀尾吉晴は織田信長、豊臣秀吉の配下として各地を転戦し、関ヶ原の戦い以前、石田三成の居城として知られる佐和山城(彦根市)の城主を務めていた戦国武将である。関ヶ原の戦いの後、堀尾氏は出雲国(島根)へ転封となり、月山富田城から現在の松江城へと拠点を移し、松江開府の祖となった。堀尾吉晴は佐和山城時代の風景を宍道湖に重ねたに違いない。竹生島神社という名前にも納得がいくのである。
余談だが、戦国時代、難攻不落の城といわれた月山富田城(島根県安来市広瀬町)は、山陰山陽十一州を従え最盛期を迎えた尼子経久の居城だ。尼子氏は、南北朝時代の婆娑羅大名佐々木(京極)道誉の孫の高久が近江国甲良庄尼子郷(犬上郡甲良町尼子)に居所し、土地の名をとって「尼子」と名乗ったのが始まりといわれている。ここにもまた不思議な縁がある。
近代を結ぶ縁 嫁ヶ島の鳥居と田邉朔郎(たなべさくろう)
嫁ヶ島に話をもどす。縁をさらに深める人物が、近代の技術者・田邉朔郎である。田邉は、明治10年(1877)工部大学校(現東京大学)入学。卒業論文で「琵琶湖疏水工事計画」を執筆。卒業と同時に京都府知事北垣国道に招かれ、琵琶湖疏水の工事主任となった。疏水工事は明治18年(1885)着工。同23年に完成。大津〜京都間に舟運を開くとともに、蹴上発電所を建設し、我が国水力発電事業の先駆となった。
京都帝国大教授だった田邉は、教え子の島根県土木課員らと嫁ヶ島で遊び、松江の上水道敷設について指導したという。宍道湖の竹生神社の鳥居は、明治40年(1907)に田邉が寄進したものである。奇跡のような縁である。
小泉八雲と籠手田安定(こでだやすさだ)
明治18年(1885)、籠手田安定は島根県知事として赴任した役人である。明治23年(1890)8月、八雲は自ら「神々の国の首都」と呼んだ松江で暮らし始める。彼をこの地に招いたのは籠手田だった。旧平戸藩士で、心形刀流と一刀正伝無刀流の免許皆伝の腕前を持ち、山岡鉄舟から一刀流正統の証の朱引太刀を授けられた剣術家でもある。
八雲の籠手田の印象が『新編 日本の面影』の「英語教師の日記から」に少しだが記されている。
——知事は立ち上がって私を迎えると、巨人のような温かい握手をしてくれた。彼の目をのぞきこむと、私はこの人を死ぬまで愛するような気持ちになった。少年のように曇りのない率直な顔立ちには、もの静かな力と寛大な心が表れている。仏様のような穏やかさである。——
籠手田は、「出雲の古い歴史を知っているかどうか」「神社の前で柏手を打つ起源についての言い伝えを知っているか」と八雲に質問したようだ。
来日4ヶ月ほどの日本語も話せない外国人英語教師にする質問とは思えないが、純粋で熱心な国粋保存家で知られた籠手田の様子は八雲には好ましく映った。「国粋保存」とは、明治維新の急激な西洋化のなかで日本の伝統文化の価値を見直し、国家の伝統文化の独自性や優位性を強調し、それを保存・発展させようとする思想だ。
『ばけばけ』では俳優・佐野史郎さんが演じている。「島根をこよなく愛し、島根を日本が誇る一流の県へ押し上げようと情熱を燃やす知事。これからの時代を担う若者たちには英語教育の充実が不可欠だと考え、外国人教師としてヘブンを島根に招く」(NHKウェブサイト)という役柄である。
松江市出身の佐野さんは、2018年NHK大河ドラマ『西郷どん』で大老・彦根藩主の井伊直弼を演じた。その前年、山陰ケーブルビジョン・マーブル開局30周年記念ドラマ『質実剛健~生きざま~』では堀尾吉晴役だった。これもまた、何かしらのシンクロニシティではないだろうか。
松江城と籠手田安定
松江城の別名は千鳥城。彦根城と同じく現存天守は国宝、城跡は国の史跡に指定されている。
明治4年(1871)、廃城令によって天守を除く建造物は4円から5円(当時の価格)で払い下げられ、全て撤去された。天守も180円で売却されることとなったが、豪農の勝部本右衛門や元藩士の高木権八が同額の金を国に納める形で買い戻され、保存されることになった。しかし、年を追うごとに荒廃していた。
——明治19年4月24日の山陰新聞は「籠手田県令には、昨年赴任以来専ら民治に心を用ひらるゝことは(中略)松江城天守閣の追年破壊し居て周囲は草茫々恰かも狐狸の巣窟となれるを、それぞれ修理を加へて公園と為し、一は山陰一城の天守閣を存置し、一は以て各種の共進会場に充る時は、幾分か市街の盛況を来すならんと粗々計画せらるゝとか云ふ。」という文を載せている。(中略)赴任して来て半年の安定の頭の中には、既に松江城の保存の青写真が出来あがっていたのである。『県令籠手田安定』——
明治21年(1888)、籠手田は「西南役記念碑」を松江城山に建立し、慰霊祭を行った。松江城の保存を夢のような話だと思う人々に、保存を根気よく説きつづける籠手田にとって、西南の役に戦死した人たちの記念碑の建立でさえ、城の公園化への第一歩だったと考えられるのである。
ところで、籠手田は明治11年(1878)滋賀県令のとき、大津市御幸山に「西南役記念碑」を建立し、慰霊祭を行っている。
滋賀県に残る籠手田安定の足跡
籠手田は武家に生まれて幕末を迎え、新政府のもとで官職についたのが滋賀県であった。県内には彼が残した足跡がいくつも残っている。田上山で宝石のトパーズが産出されることを広く報告し、壬申の乱で破れた大友皇子陵が三井寺の中にあることを独自の調査でつきとめ、南郷洗堰の基礎となる考えを構築するなど、現代にもその姿をとどめるものが多い。
湖北の高時川と田川が交差する辺り、小さな社が二つ建っている。ひとつは「水引神社」。江戸時代まで水害の多かったこの地域の治水を見守る神様である。そしてもうひとつの社は「籠手田神社」という。滋賀県令・籠手田を祀った神社である。明治16年(1883)、レンガ製の新しい田川カルバート工事が着手される。これにより水害は激減し、籠手田県令は「田川治水の恩人」と呼ばれるようになった。おそらく、神社もそれを称えて建てられたものだろう。
彦根城と籠手田安定
——明治11年には城郭内の不用な建物が取り壊されることとなり、一部の建物が大津に置かれた歩兵第九連隊の営舎に移された。天守も800円で売却されることが決まり、足場がかけられて解体作業が始まろうとしていた。
この時、おりしも明治天皇の北陸巡幸に供奉していた参議大隈重信が、高宮に宿をとった。以前より彦根城の天守から琵琶湖を望んでみたいと思っていた大隈は、その希望を叶えるべく彦根城に向かった。ところが「彦根藩士三百年間の魂の入れ物」であった城が破却されようとしていることを知り、「如何にも気の毒に堪えぬ」として、早速、籠手田安定県令を呼び寄せて事情を問いただしたうえで、彦根城を特旨によって永久に保存することが決まったという。『新修彦根市史 第三巻 通史編 近代』——
明治11年(1878)10月14日、滋賀県を巡幸していた明治天皇は、「彦根城郭」を保存する意向を表明し、政府から陸軍省と滋賀県などに向けて、保存措置が通達され、取り壊し直前であった天守などの建物は解体を免れたのだ。
あまりにドラマチックである。偶然が重なりすぎている。松江城を保存し公園化する計画を周到に進めた籠手田である。何かしらの計画的な演出があってもおかしくない。松江では民間の保存運動が行われているが彦根の住民はどうだったのか……。『彦根城博物館研究紀要第35号』(2025)『資料紹介 明治十一年「彦根城郭保存」関係資料について』(彦根城博物館学芸員 渡辺恒一)に民間の天守保存運動の経緯が載っている。改めて紹介したい。
未来へ紡ぐシンクロニシティ
松江と彦根はほんとうによく似ている。
島根には隠岐の島があり、琵琶湖にも沖島がある。国宝の天守を有する松江城と彦根城はともに、明治の廃城令や戦火を免れた。市民の誇りとしてその姿を遺す城を中心とした城下町である。
また、松江は近くに国津神の頂点である出雲大社、彦根は天津神の親神・イザナギとイザナミを祀る多賀大社がある。記紀の時代からの宗教的・精神的バックボーンを持っている点も共通している。
籠手田は、島根県知事として赴任したとき、「湖のある風景」「神代からの歴史的精神的バックボーン」「城下町の気風と成り立ち」など、鮮やかな既視感を覚えたのではないだろうか。
歴史を辿ると、松江と彦根の間には驚くほど多くの「意味ある偶然の一致」がある。シンクロニシティは、単なる偶然ではなく、私たちがその関係性に「意味」を見いだすことで初めて姿を現す。今日の私たちが、未来に紡ぐ縁に「意味」を付与したとき、新しい価値に「化けて」いくのかもしれない。