「超」であり「眺」である

弓道競技は、射手が立つ位置から的の中心までの距離、近的28メートル(的の直径36センチ)、遠的60メートル(的の直径100センチ)と定められている。今年で第9回を数える「彦根城眺遠的大会」の射距離は、なんと80メートル(的の直径100センチ)だ。彦根市弓道連盟の主管、当所と近江ツーリズムボードが第一回大会から主催する大会である。
80メートルという距離は、弓道家にとって「中りそうで中らない」不思議な距離だという。近的のような至近の緊張感とも違い、通常の遠的よりもさらに遠い。矢が届くかどうかのぎりぎりの攻防のなかで、弓道家は国宝の天守を視界に捉えながら弓を引く。公式競技の「遠的」60メートルを「超」える距離、そして天守を「眺」める弓道大会なのである。
会場は彦根城の内曲輪「大手前保存用地」だ。射位(弓を射る位置)に立てば、正面には彦根城天守がそびえる。唯一無二の体験となる。
「サッカーや野球、テニスやラグビー、ラクロス……、城を望みながら競技をすることはできる」が、実は、弓道には少し特別な事情がある。右利き・左利きという区別がない。誰もが左手に弓を持ち、右手で矢を持ち番えて放つ。射場に並ぶ弓道家は、年齢や利き腕に関係なく、全員が同じ的を、同じ方向から狙うことになる。眺遠的大会では全員が同じように天守に正対する(金亀山が上座となる)。
そして、彦根城が築かれた金亀山は、城が建つ以前には彦根寺があり、観音霊場であった。射手が礼を捧げる上座の空間の先には神仏が宿り、一射がこの土地固有の「敬うべき方角」の記憶につながっている。

彦根藩と弓

江戸時代、武士たちが弓の限界を競う聖地があった。京都・蓮華王院、通称「三十三間堂」。全長約121メートルの細長い軒下の回廊を、南端から北端まで矢を射通す「通し矢」である。新記録を達成すれば「天下惣一」を名乗ることを許され、記録は塗り替えられ続けた。現在、正月の三十三間堂で行われる初射会(大的全国大会、射距離60メートル)は、この歴史に由来する。
慶長12年(1607)、この「通し矢」の舞台に彦根藩士の名が記録されているという。山内真秀(やまうちまさひで)、井伊直政の長男・直継に仕えた武士である。その腕前は家康の耳にも届き、真秀は彦根を離れ川中島藩主・松平忠輝附きとなった。徳川譜代筆頭の彦根藩が、当代随一の弓術士を中央に輩出した瞬間であった。
それから200年余り。彦根城博物館の調査報告書によると、表御殿奥向の庭には御射手小屋と垜(あずち)が設けられていたことが記されている。垜とは、弓道場で的を掛けるために、土や細かい川砂を山形(土手状)に固めて作る盛り土のことだ。彦根藩主が暮らすプライベートな空間にも、弓場があった。彦根藩十二代当主井伊直亮公は、日々「巻藁(まきわら)」に向かい、『日置流雪荷流巻藁前矢数日記』(文政6年~文政13年)には多い時で1日510本もの矢を射続けた記録を残している。
510本という数字は、実際に弓を引いたことのある者ほど、その凄まじさに息を呑むはずだ。単純に計算しても、1本に1分もかからぬ速さで淡々と弓を引いたとしても、8時間以上を要する計算になる。むろん、直亮公が実際にそれほどの速射をしていたとは考えにくい。おそらくは、日が昇ってから日が沈むまで、あるいはそれ以上の時間、弓を引いていたのだ。
ドイツの哲学者オイゲン・ヘリゲル(Eugen Herrigel)が著した名著『弓と禅』(原題:Zen in der Kunst des Bogenschießens)には、彼が弓聖・阿波研造師範のもとで弓道を学んだ際の、巻藁にまつわる象徴的なエピソードが描かれている。西洋的な「論理や結果(的に当てること)」を重視するヘリゲルが、日本の「無心・無我」の境地を体得するうえで、巻藁は単なる練習台ではなく、精神を鍛練するための最も重要な道具として登場する。
直亮公もまた、誰に見せるためでも、称賛を受けるためでもない。ただ黙々と、矢数を記す。積み重ねられた矢数に、徳川譜代筆頭としての厳格さと、文武両道を重んじる井伊家の家風が透けて見える。ヘリゲルが異国で辿り着いた境地に、直亮公は一世紀近く先んじて、彦根の弓場でひとり到達していたのかもしれない。
また、現在の市立西中学校グラウンドにあたる場所には、寛政11年(1799)、彦根藩十一代当主井伊直中公により藩校稽古館(天保元年、弘道館と改称)が創設されている。兵学・天文学・算学・弓術・剣術・柔術・薙刀など多様な学問と武芸が教授され、中でも弓術は3面の道場を有し、武田流をはじめ日置流・片岡流・吉田流などが行われていた。さらに藩士に弓術を指南する家、藩主家の弓術指南役を務める家が複数存在するほど、弓は彦根藩政の組織そのものに深く根を張っていた。個人の鍛練(修練)としての矢数と、藩を挙げた教育制度としての弓術。彦根における弓の歴史は、幾重にも積み重なっている。

彦根城眺遠的大会 地域別参加者数の推移

 2017年の第1回から、彦根城眺遠的大会は着実に参加者を伸ばしてきた。初回189名だったエントリーは、9回(9月6日開催・予定)には370名に達する見込みで、これまでの延べ参加者は2,008名にのぼる(4回・5回はコロナ禍により中止・2025年はわたSHIGA輝く国スポ・障スポ )。
当初は近畿地方が参加者の6割前後を占める”地元大会”だったが、回を重ねるごとに東海地方の参加が伸び続け、8回以降は東海が近畿を上回るまでに拡大した。関東からの参加も6回以降12〜18%台で定着し、近年は北陸(特に富山県)からの参加も着実に増えている。地元の大会から、全国区の大会へ——9年間の数字が、その歩みを物語っている。
この歩みの先に、もう1つの可能性がある。弓・禅・茶——この3つは、インバウンドが日本で最も強く惹かれ続けてきたコンテンツである。彦根には、その3つすべてが、借り物ではなく本物として揃っている。城を仰ぎながら矢を放つという体験は、国内はもとより、世界のどこを探しても他に例がない。加えて、彦根には戦国の記憶と民俗(妖怪)伝承が幾重にも重なる歴史の厚みと、富士山と並び称される日本一の湖・琵琶湖という景観がある。
彦根城眺遠的大会が近畿から東海へ、そして関東・北陸へと少しずつ裾野を広げてきたように、この輪が世界へと届く日がきても、何ら不思議ではない。世界の弓道家が、いつか彦根を目指す。そんな未来を、この数字は予感させている。

弓のまち彦根 文化による開国

彦根藩13代当主井伊直弼公は、13歳の頃から清凉寺で禅の修行を始めている。道鳴禅師、師虔禅師、そして仙英禅師に相次いで師事した。直弼公にとって禅は教養ではない。埋木舎での長い隠棲生活のなかで、茶・和歌・武芸・学問を通じて自らを鍛え続けた、その根幹をなす実践だった。
その精神性が凝縮されているのが、直弼公が仙英禅師に送ったとされる「茶湯三言四句の茶則」である。「茶非茶、非非茶、只茶耳、是名茶(ちゃはちゃにあらず ちゃにあらざるにあらず ただちゃのみ これをちゃとなづく)」。仙英はその境地を高く評価したとされる。一期一会、独座観念、和敬静寂。直弼公にとって茶の湯とは、禅の修行が形となったものだった。

弓道もまた、同じ精神を宿している。「弓禅一如」という言葉がある。ただ1本の矢と向き合う。二度と繰り返されることのない、この一射、この一瞬に全霊を込めるのだ。直弼公が茶の湯に見出した一期一会の精神と、驚くほど近いところにある。
彦根藩が江戸時代に培ってきた弓・禅・茶という3つの文化資産は、単なる地方の伝統ではない。世界がすでに強い関心を寄せてきた日本の精神性そのものだ。
戦国時代の終焉を告げる「武による開国」でも、徳川時代の終焉を告げる「経済による開国」でもない。彦根城の世界遺産登録により始まる第三の開国は、独りよがりな理想論ではない「文化による開国」だ。
シビックプライドとは、自らの街を誇り、他所に自慢することではない。過去から受け取ったものを、次の世代へどう手渡すか——その自覚を持つことだという。清凉寺で禅に向き合った直弼公、巻藁に黙々と向き合い続けた直亮公、藩校で弓術を学んだ藩士たち。城を仰ぎ、矢を放つその一瞬に、彦根が積み重ねてきたものが、今、静かに胎動を始めているのではないだろうか。

取材協力・写真提供: 彦根市弓道連盟


第9回 彦根城眺遠的大会

2026年9月5日(土)13:00〜15:00 公開練習
2026年9月6日(日)9:30 開会式(「ひこにゃん」の特別演武を予定)
会場:彦根城内大手前保存用地特設射場