いよいよ今秋から、彦根プレミアム塾「彦根ヒストリア講座」が始まる。「戦国編」4講座では佐和山城主石田三成を、「近代編」3講座では明治維新後の彦根藩にスポットをあてる。石田三成をNHK大河ドラマの主人公にする気運を盛り上げるため、そして、今年の大河ドラマ「青天を衝け」の主人公渋沢栄一が生きた時代の彦根を学ぶ歴史クエストである。
井伊直憲の講座が目新しい。直憲は渋沢栄一と同時代を生き、郷土の夜明けを開いた彦根藩第14代ラストエンペラーである。欧米に留学し、近代国家の文化を学び、彦根の文化・教育・産業振興の基礎を確立した人物だ。
渋沢栄一は、天保11年(1840)2月13日の生まれで、昭和6年(1931)11月11日にこの世を去った。井伊直憲は、嘉永元年(1848)生まれ、明治35年(1902)に没した。渋沢より8歳年下である。

井伊直憲写真:彦根城博物館所蔵 画像提供:彦根城博物館 / DNPartcom

彦根藩第14代当主 井伊直憲 (1848〜1902 )

嘉永元年(1848)4月20日、彦根藩の世子で、井伊家13代当主となる直弼の子として生まれた。安政7年(1860)3月3日、大老直弼は桜田門外で殺害され、その死は、当時、13歳だった直憲にとっても衝撃的なできごとだったに違いない。

直憲の顕彰碑

直憲が亡くなったその年に、佐和山神社参道に井伊直憲公顕彰碑(正二位勲一等伯爵井伊直憲公瘞髪塚)が建立された。「瘞」は「えい」と読む。「うずめる、埋葬する」という意味だ。碑は平成15年6月に井伊直憲顕彰会によって井伊神社に移設され、そのときに建てられた案内板がある。まさに直憲の業績を的確にとらえた一文である。

井伊直憲は、大老直弼の嫡子である。萬延元年(原文ママ)(一八六〇)桜田門外の変で父直弼が非業の死を遂げた後を受け、直憲は弱冠十三才で彦根藩最後の藩主となった。就任当初は従前どおり幕府譜代大名筆頭の家格をもって、三十五万石を領し、京都守護の任にあたり、和宮降嫁の際は、将軍の名代として京都朝廷への上使を勤めた。
その後、幕府の大政奉還により、藩の去就を決するに当たり、藩是であった『勤王の大義』に徹するという直憲の決意により、官軍に属することと決定した。これにより、徳川四天王の流れを汲む彦根藩の動向を窺っていた各藩も官軍につく事に決し、明治政府成立への大きな原動力となった。その政治力、決断力は、まさに大老直弼の『開国の決断』にも比すべきものがある。
しかし彦根藩は、幕府の厳しい処遇を受けるなど危機的な状況にあった。その後、天誅組鎮圧のため大和へ出兵、禁門の変で長州藩と戦い、第二次長州戦には芸州広島へ、戊辰の役には奥州会津までも出兵し、多大の戦功を挙げた。藩籍奉還後は、彦根藩知事、彦根県知事として、さらに欧米に留学し、近代国家の文化を学び今日ある彦根の文化、教育、産業振興の確固たる基礎を確立した。
大老直弼は『日本の夜明け』を開いた開国の恩人であり、その息直憲は、まさに『彦根の夜明け』を開いた郷土の恩人、英雄と称すべきであろう。
直憲の死後、その功績を偲び、彦根町、犬上郡、大阪市などの有志による基金をもって佐和山神社参道に公の『えい髪塚』を建立した。戦後は時世の変化や周辺樹木の繁茂するにまかせ、市民にほとんど知られることなく、道なき山中に人知れず孤高を保っていた。
幕末・維新を通じて、苦難の道を歩み続けた直憲公の存在と功績が、再認識されることをこい願い、このたび多くの有志の浄財を得て『井伊直憲公顕彰碑』として由緒深い井伊神社の地に移設した

石碑や銅像は、歴史を振り返る記憶装置なのである。
「直弼の陰に隠れてしまっている直憲だが、彦根のラストエンペラーは、郷土の夜明けを開いた英雄として、もっと人々から評価されてよいのではなかろうか」。河合敦氏(日本の歴史作家・歴史研究家)は『井伊家十四代と直虎』(彦根商工会議所編・サンライズ出版)に記している。

「井伊直憲公顕彰碑」 揮毫:日下部鳴鶴(彦根市古沢町)

直憲の西洋遊学

明治4年(1871)、廃藩置県により、初代井伊直政以来代々続いた井伊家による彦根統治は終わりを告げた。直憲は彦根から東京に居を移し、翌明治5年10月から翌年11月までの1年間、西洋へ遊学することになる。明治政府は華族(旧大名)に海外留学を奨励し、この時期、多くの華族が欧米を見聞していた。直憲もその一人であった。この事実はほとんど知られていなかったのではないだろうか……。
2022年2月10日(木)の彦根ヒストリア講座「近代編」第3講は、講師に京都薬科大学名誉教授鈴木栄樹氏を招聘し「井伊直憲の西洋遊学」について学ぶ。鈴木氏は、『彦根城博物館叢書1 幕末維新の彦根藩』(彦根藩資料調査研究委員会編、彦根市教育委員会発行所収、2001年)に「最後の彦根藩主井伊直憲の西洋遊学│一大名華族の西洋体験」と題して直憲の行動を詳細に紹介されている。
直憲は、実弟の井伊直安(越後与板藩主井伊直充の養子となり同藩最後の藩主)、後に大阪府知事などを歴任することになる旧彦根藩士の西村捨三ら数名を伴い横浜からアメリカに向けて出発する。現在、彦根城博物館が所蔵する『彦根藩井伊家文書」中の「井伊直憲洋行日誌」には、日本を出発してまもない明治5年11月4日、太平洋航海途上の記事から始まり、アメリカ滞在の全期間、そしてイギリス着後の4月15日に至る日々の記録が丹念に綴られている。明治初年の華族大名自身の手による洋行の記録として貴重なものであるという。彦根ヒストリア講座では、直憲について興味深い西洋体験の話を聞くことができるに違いない。

井伊直憲写真:彦根城博物館所蔵 画像提供:彦根城博物館 / DNPartcom

帰国後の直憲

直憲の帰国は、明治政府が征韓をめぐって真っ二つに分裂し、西郷隆盛、板垣退助、江藤新平など政府の有力者が下野した直後であった。直憲は、藩主の地位を降りたあとも、旧臣や旧領民の行く末を案じ、関係を持ち続けた。明治9年に旧藩士外村省吾を校長とする師範学校・彦根学校が開設されるが、校舎の新築には5千円以上を要した。直憲はその建築費を一時的に立て替え、明治20年代まで補助金を出し続けた。滋賀県尋常中学校にも補助を出している。明治16年には70歳以上の男女に贈与金を与え、明治29年に彦根が水害の被害を被ったときには、家令の堀部久勝を現地へ派遣して被災者を慰問させ、彼らに5百円の義捐金を送っている。直憲は、家財を惜しみなく拠出して郷土の発展のために尽力し続け、旧臣や領民に慕われたラストエンペラーだった。直憲は東京から彦根へ転居してほしいと乞われ、その願いに応じ、明治28年、本籍地を彦根に変え、帰住することになる。
直憲の遊学の意義は、「直憲ら個々人のレベルとその後の彦根の地域社会に与えた影響という、二つの点において考えてみる必要があるだろう。日常生活の中に浸透している物質的、技術的な面から政治や社会のシステムのあり方に至るまでの圧倒的な西洋文明の現実に対する驚嘆であり、他方、生活の中で異文化と接触することを通して『違い』というものを認識したことではないだろうか。それは、日本と西洋との違いであり、西洋の中でのアメリカとイギリスとの違い、などなどである。と同時に、そうした違いを越えて、様々な西洋人との接触を通して、何らかの『人間』としての共通性をも発見したのではないか」と鈴木氏は記している。
NHK大河ドラマ「青天を衝け」では、帰国した渋沢栄一が西洋での学びを活かし始動し始める。直憲の遊学と重ね明治時代の彦根を振り返るのは愉しくはないだろうか。

彦根プレミアム塾「彦根ヒストリア講座」Invisible Heritage 戦国編 + 近代編


参考
  • 『彦根城博物館叢書1 幕末維新の彦根藩』(彦根藩資料調査研究委員会編・彦根市教育委員会発行・2001)
  • 『井伊家十四代と直虎』(彦根商工会議所編・サンライズ出版)