前回の連載では、彦根城の二重の堀に囲まれた空間の中に、藩の政治に必要な機能が集められていたことを説明した。特に、大名と重臣が藩の政治方針を決めていたので、彼らの住む御殿と重臣屋敷が階層的に配置されていたことは重要である。しかし、江戸時代の政治は、それだけでは成り立たない。大名と家臣たちの結びつきを深め、それを長く保つためには、儀式をすることが必要だった。

大名と家臣は対面する

彦根藩の家臣たちは、毎月数回の決められた日に、表御殿(現在の彦根城博物館)へ集められた。家臣たちがランクによって決められた位置に並んで座っていると、大名が上段の間に登場する。そこで大名と家臣たちは、顔を合わせ、言葉を交わすなどした。藩の組織は、大名と家臣たちの主従関係によって成り立っていたので、このような儀式を何度も繰り返して、互いの立場を確認し続けることが必要だったのである。
表御殿の中の能舞台では、藩の特別な祝賀行事のときに能が上演され、それを大名と家臣たちがいっしょに鑑賞した。明治時代になって表御殿の建物は取り壊されたが、能舞台だけは市内の神社に移築して保存されていた。現在の彦根城博物館の能舞台は、それを再び元の場所に移築したものである。江戸時代には全国のほとんどの城に能舞台があったはずだが、今も実物が残っているのは彦根城しかない。現在、その貴重な能舞台で定期的に能が催され、私たちは江戸時代と変わらない姿を見ることができる。

全国の城で唯一残る表御殿能舞台

大名、彦根に帰る

主人と家臣が対面する儀式を全国規模にしたのが参勤交代である。全国の大名は、1年ごとに自分の領地と江戸とを行き来していたが、江戸にいる間は、決められた日に江戸城で将軍と対面する儀式をしていた。江戸での滞在期間を終えて、彦根に帰ってきた大名の行列は、城下町のメインストリートを通り、彦根城へ向かう。堀端の「いろは松」のところでは、家臣たちが勢ぞろいして大名を出迎えた。美しい松並木は、大名と家臣たちが再会する場面を演出する舞台装置だったのである。参勤交代は、将軍と大名の関係だけでなく、大名と家臣たちの関係を深める意味を持っていた。

参勤交代の儀式の舞台だった「いろは松」

儀礼空間としての玄宮園

表御殿での儀式が公式に定められたものだったのに比べて、玄宮園は、やや自由な使い方のできる場所だった。史料を紐解くと、大名が家臣やその家族を呼んで面会し、飲食をしたり褒美を与えたりしていたことが分かる。井伊直弼は、家臣だけでなく、僧侶を招いて茶会を開いたことがあった。また、園内で大名と家臣が和歌や漢詩を詠んだり、馬術や弓術を披露したりしていたことも記録されている。庭園は、美しい景色を楽しむだけでなく、茶の湯や武芸などを通じて、大名と家臣たちの結びつきを深める場所だったのである。
また、園内には田んぼが作られており、そこでは大名が領民の暮らしに思いをはせ、豊作を祈る儀式をしていた。現在、その田んぼでは、市民が田植えを体験する行事が毎年開かれている。

江戸時代は、安定した社会が長く続いた時代である。将軍と大名、大名と家臣、そして藩と領民の結びつきを強め、長続きさせるためには、儀式を繰り返すことが重要だった。彦根城では、そのための様々な場所を今も目にすることができる。