前回の連載では、「江戸時代は地方が主役の時代で、地方の政治をしていた大名の役割が重要であり、その大名の政治拠点だったのが城である」と説明した。では、彦根城は、政治拠点として、どのような構造と機能を持っていたのだろうか。いよいよ彦根城の内部構造について具体的に見ていきたい。

城内に何があったのか

彦根城は、大名・井伊家が彦根藩領(現在の長浜市から東近江市くらいまで)の政治をするための拠点である。幕府のルールによって、1つの藩領につき1つの城しか認められなかったので、当時、彦根藩領には彦根城以外の城が存在しなかった。つまり、彦根城は、彦根藩領の唯一の政治拠点で、二重の堀に囲まれた全体構造の中に、この領地全体の政治をするための全ての機能が集まっていたのである。
城全体の中心で、最も高いところにそびえているのが天守である。彦根城天守は、将軍の命令によって、既存の大津城天守を解体し、部材を再利用して建てられた。将軍から与えられたシンボルを頂上に掲げることによって、彦根藩は、自らの権力が将軍から認められた正当なものであることを目に見える形でアピールしていたのである。遠くからでもよく見えるように工夫された天守は、権力のシンボルとしての中心的な役割を果たしていた。
丘の麓には、大名の住む表御殿がつくられた。大名を支える重臣(家老たち)は、ここに集まって、藩の政治方針を話し合いで決定し、大名に報告したり、重要な判断を仰いだりしていた。また、大名と家臣たちが対面する儀式もここで行われた。表御殿は、藩の政治を動かすための中心的な場所だった。御殿の建物は明治時代に失われたが、その遺跡は現在も彦根城博物館の地下に保存されている。
その表御殿から堀を隔てた外側のエリア(第二郭)には、重臣(家老たち)の屋敷が配置されていた。全ての重臣の屋敷が城内に集められ、大名の御殿を取り囲むように配置されたことは、大名を中心に組織化された藩の構造を示している。現在も旧西郷屋敷長屋門をはじめとするいくつかの建物が残っているだけでなく、学校や裁判所になっているところでも、地下に遺跡が保存されている。
これらに加えて、行政文書の倉庫、米蔵、馬屋、藩校など、藩政のための様々な施設が配置されていた。中でも、玄宮園は、大名と家臣たちの関係を深めるための儀式の場所として重要だった。

彦根城天守(彦根市提供)

二重の堀で囲まれた全体構造

城全体は、二重の堀によって囲まれていた。第一の堀(内堀)は、天守や表御殿などのエリア(第一郭)と重臣屋敷などのエリア(第二郭)とを区別するもので、大名と重臣の地位の違いを表現していた。第二の堀(中堀)は、城の内側と外側とを区切る境界線で、当時、一般庶民がこの内側に立ち入るには特別な許可が必要だった。石垣や堀の圧倒的なスケールは、この内側がまわりの町とは異なる特別な空間であることを示していた。
このように、二重の堀で囲まれた空間の中に、彦根藩の政治のために必要な全ての機能が集められ、階層的に配置されていた。城といえば天守をイメージされるかもしれないが、天守はその中心にあるシンボルに過ぎない。空間全体の構造によって、江戸時代の特徴的な政治システムを読み解くことができるのである。

上空から見た彦根城の全体構造