現在の彦根城は、二重の堀に囲まれている。堀があるのは当然だと思われるかもしれないが、実はそうではない。江戸時代に約150あった城は、明治時代以降に堀を埋め立てて市街地化されることが多く、二重の堀が完全に残っている城は、彦根城を含めて数えるほどしかない。堀に囲まれた全体構造が残っていることは、彦根城の大きな強みである。
前回と前々回の連載では、堀に囲まれた空間の中に、大名と重臣の住まいや儀礼のための場所が集められていたことを説明した。今回は、城の内側と外側を隔てる二重目の堀(中堀)に注目し、その役割を考えたい。

中堀沿いに残る佐和口多聞櫓

城の内外を隔てる中堀

城下町を歩いて城に近づき、目の前に中堀が広がる光景を想像してほしい。堀幅は場所によって異なるが、最も広い滋賀大学の付近だと、約48mにのぼる。圧倒的なスケールである。堀の内側には高さ約7mの石垣がそびえていて、左右を見渡すと、石垣のラインが堀沿いに続き、外周全体を固めていることが分かる。現在、石垣の上には樹木が茂っているが、江戸時代の絵図や文献を調べると、要所には二重櫓があり、その間は塀で結ばれ、松の木が植えられていたようだ。いずれにせよ、石垣や樹木で視界が遮られて、城内に配置されている御殿や屋敷の様子を城外からうかがうことはできない。さらにその奥に、木と木の間から顔を出す、天守の姿が見えるだけである。
中堀沿いには、佐和口、京橋口、船町口、長橋口という4か所の出入り口が設けられた。現在、長橋口は橋が失われて行き来できないが、他の3か所からは、誰もが自由に城内へ立ち入ることができる。しかし、江戸時代はそうではなかった。堀の内側は、大名や重臣が住む特別な空間である。家老が門番に示した通行規則によると、城外に住む領民(百姓・町人)は、特別な通行許可証がないと立ち入れなかった。彦根藩領以外から来た者は原則として立ち入り禁止で、城内に住む重臣の家に来客があるときは、事前に家老の許可を得なければならなかった。許可された来客であっても、城内を勝手にうろうろされては困るので、監視役が付けられた。中堀の内側は、藩政の中枢であり、出入りが厳重に制限された機密空間だったのである。

最も幅の広い滋賀大学付近の中堀

堀は見た目が大事

1650年、暴風雨の影響で、中堀沿いの塀が大規模に損壊した。このとき、藩主の井伊直孝は、家老たちへの手紙で、「世間からよく見えるところなので、入念に修理をして、見苦しくないようにせよ」「壊れた部分が大きく、一度の工事では無理なので、区間を区切って、ゆっくりでいいから確実に修理せよ」という主旨の指示をしている。「塀が壊れたままでは防御上問題なので、すぐに直せ」などとは決して言わない。それよりも大事なのは見た目であり、確実性だった。
中堀は、城内と城外を隔てる境界線で、城外に住む領民の目に直接触れるところだった。石垣と堀の圧倒的なスケールは、その内側が統治のための特別な空間で、外部の都市空間とは区別されることを目に見える形で表現していた。空間の区別は、そこに住む人の役割の区別である。中堀の内側に住む大名と重臣は、藩の政治方針を決め、領民の暮らしを守り、地域全体の安定を保つという、特別な役割を担っていた。
彦根城は、堀に囲まれた全体構造が残っているからこそ、空間全体の持つ意味を今に伝えている。