彦根城の歴史を振り返る

彦根城の世界遺産登録を実現するためには、価値の証明、保存管理体制の整備に加えて、地元住民が主体となって「彦根城を活かした持続可能なまちづくり」を進めることが必要です。彦根城を活かすとは、具体的にはどうすることなのか。このテーマについて、しばらく考えてみたいと思います。
彦根城は江戸時代、彦根藩の政治拠点でした。彦根城の中堀より内側に城主と重臣が集まって暮らし、話し合いによって領民が幸せに暮らせるような政治が行われました。領民は、彦根城が今日もかわらぬ姿でそこにあるのを見て、無事に暮らせると感じました。
時代が江戸から明治に変わると、彦根城は政治拠点としての役割を終えました。明治4年(1871)7月に廃藩置県が断行されると、その翌月に全国の城郭が兵部省の管轄下におかれました(翌年以降は陸軍省の所管)。彦根城については、同年12月に大阪鎮台第二分営が若狭の小浜からこの城に移されましたが、その部隊が明治6年(1873)に京都の伏見に移るなどして、軍事拠点としての役割も失いました。陸軍省は、明治11年(1878)に彦根城の解体に着手しました。ちょうどその時、明治天皇が滋賀県に行幸し、明治天皇に随行していた大蔵卿の大隈重信が彦根城を訪れて、地元住民が彦根城の保存を望んでいることを知りました。大隈が明治天皇に彦根城の解体中止を進言し、明治天皇の命令で、彦根城が永久保存されることになりました。

大隈重信銅像(早稲田大学構内)

地元住民の彦根城への思い

大正時代、彦根城の永久保存に深くかかわった大隈重信は、その時の出来事を新聞記者に語りました。その回顧録(『朝日新聞 京都付録』大正3年5月16日・17日付「隈伯と彦根城」)を見ると、地元住民が、彦根城にどのような思いを寄せていたのかがわかります。
彦根城を訪れた大隈に、ある彦根士族が思いの丈を次のように述べています。「わたしたちの祖先が、お殿様への忠節を尽くそうと思って、300年間見上げた天守を、もう見ることができなくなるのです」と。彦根の士族たちにとって、彦根城は「300年間、彦根藩士の魂をぶち込んで守護してきた」、「武士の魂の入れ物」でした。
彦根城の解体は、武士の魂が消し去られてしまうことに他ならず、城下町の歴史に幕を引くセレモニーになってしまいます。彦根士族たちの願いは、彦根城の解体を中止させ、城下町の伝統を守ることでした。その願いが大隈重信を介して明治天皇に届き、彦根城の解体が中止されたのです。

解体前の彦根城表門口

城下町の伝統を伝える

明治天皇が彦根城の解体中止を命じたことは、彦根の城下町としての伝統を途切れさせずに未来へ伝えた画期的な出来事でした。永久保存が決まった彦根城は、その後、彦根が井伊家の城下町だったことを示すランドマークとしての役割を果たし、今に至っています。
彦根城が今日も変わらぬ姿でそこにある限り、城下町としての伝統を有する彦根のまちの個性が失われることはありません。